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zoom RSS ネガイネガワレ 17

<<   作成日時 : 2017/05/13 19:20   >>

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不意に、心地よさを感じた。
幼い頃に母親が優しく頭をなでてくれた時のような、そんな安心感をもたらす心地よさだった。
笑いながらじゃれ合っているであろう、愛らしい子供達の声が遠くに聞こえる。

私はしばしぼんやりと、物思いにふけった。
まるで頭の中に深い霧がかかったようで、上手く物事を考えられなかったのだ。自分自身のことでさえも、よくわからなかった。
ええと、私は……私は……私の名前はサンドラだ。生まれた時は女だった。でも十三の春に、死に別れた親の借金のために貴族の馬鹿息子に買われて、女とは呼べない体にされて……。
そこまで思い出せた途端に、急に意識が明確になった。
思い出した。ああそうだ。私は喉元を斬られて死んだのだ。地下の水路から女性が、妊娠した女性が小舟で連れ去られる所に出くわして、無謀にも突っかかっていって、返り討ち。挙げ句に食料泥棒なんてひどい濡れ衣を着せられて、口封じされたのだ。
きっとここは、あの世に違いない。
さて地獄へ来たのか天国へ来たのか。私はひどく重たいまぶたを開けて、確かめた。

……そこは、柔らかい色をした光が照らすばかりの、何も無い空間だった。私はそこでふわふわと浮いていた。
そんな私の周りを、背中に白い小さな羽のある白い衣服を着た子供達がゆっくり飛び回っている。
これが現実であるものか。どうやら本格的な「旅立ち」の時が来たようだ。

「連れてってあげる」

子供達が私の体に取り付いて、小さな羽をぱたぱたとはためかせる。導かれるようにして私の体は少しずつ、上昇していった。

もうあの世界には戻りたくない。生まれ変わりなどというものがあるのかどうか知らないが、まっぴら御免だ。
それでも生まれ変わらなければならないのなら、人間以外のものが良い。いずれも辛い思いをするのだろうけど、人間ほどには長生きせずに済むだろう。身の程知らずで厄介な感情に振り回されることもないだろう。
私はこの時、実に安らかな気持ちだった。辛い記憶も悲しい記憶も遠ざかり、いつも緊張していた頬の筋肉が緩んでいるのを自覚するほどに。
――足首を何かに掴まれるような感触があるまでは。

何だこれは。
いぶかしんで足首に目をやると、柔らかい色をした空間の底に渦を巻いている部分が有り、そこから細い筋が次々に下から伸びてきて、私の足首に絡みついているところだった。それだけではない。ぐいぐいと渦の方へと引きずり落とそうとしている。
途端、私は喉にいがらっぽさを感じた。
静めようと咳払いをすると、急に苦しくなって咳が止まらなくなった。
体を丸めて何度も何度も咳をするうちに、ごぼ、と赤い液体を吐いた。それでもまだ、苦しかった。
これは一体どうしたことか。なんでここに来てまだ苦しまなければならないのだ。
私はこれで終わりなのだろう。せめて静かに安らかに眠らせてくれ。

「どうしよう。連れていけないよ」

子供達は困惑したように私から手を離した。私の体は、細い筋に引きずり込まれるままゆっくりと底へと落ちていく。
連れていけない? どういう意味だ。死人の魂を放ったらかしにするつもりか。

「どうして」

遠ざかっていく子供達に向けて、私はようやく、それだけを口に出来た。口が、思うように動かなかった。まるで夢の中にでもいるかのように。

「だって、誰かがあなたを生き返らせようとしているんだもの」

答える声が聞こえてきた時にはすでに、私の体は渦の中に引き込まれていた。
生き返らせようとしている? 誰が、何のために、私なんかを。
視界の悪い渦の中でもみくちゃにされながら、私はそんな疑問にとらわれていた。
  

――体が空気を求めている。
私は跳ね起きて、大きく何度も息をした。
苦しい。どんなに息をしてもし足りない。私は苦痛のあまり、いつの間にかうずくまって拳を握っていた。
視界に入る手や足の、肌色の面積がやけに広いと思ったら私は何も身につけていなかった。当然、胸元の醜い傷跡も目に入る。だが今はそれどころではない。
私がうずくまった地面を、大量の落ち葉が覆っている。息をするごとに湿った土の匂いと枯れた落ち葉の匂いが私の肺を満たした。

「……お帰りなさい」

ようやく落ち着いた頃、私は覚えのある声を聞いた。
顔を上げれば、天使が私を見下ろしていた。
苦痛が薄らいだばかりで働きの鈍い頭でも、ピンと来た。

「お前か」

私は天使の綺麗な顔をにらみつけていた。

「お前だな、私を生き返らせたのは」

私に、生き返ったことへの喜びはなかった。こみ上げてくるのは怒り、ただそれだけだった。

「どうして放っておいてくれなかった!? どうしてこんな世界に引きずり戻した!?」

私は生き返りたくなんてなかった。
あのまま導かれていれば、惨めなばかりの存在でしかいられない世界と別れられたのに……これで私は惨めな存在に逆戻りだ。

「まだ、あなたの願いが一つ残っていますもの」

天使は静かにそう答えた。

「一つ……?」
「ええ。あなた、今際の際にした願い事をお忘れですの?」

そうだ。
私は喉元を斬られて死ぬ間際に願ったではないか。その場にいない天使に向かって、デニスにも彼女の姿を見ることができるようにしてくれ、と。
天使はあの願いを叶えたのに違いない。

デニスの面影が脳裏をよぎる。深緑色の軍服。声。優しく誠実そうなまなざし。
思い出されるそれぞれに懐かしい気持ちと、胸を締め付けるような痛みをおぼえた。

「……デニスは」

名前を口にした途端、胸の奥底がずきりと痛んだ。私は彼のことを引きずっている。
でもこれはきっと、しょうがない。私はこの想いが通じることはないと知って間もなく死んだのだから。
もう少し間を置いて死んでいたのなら、あきらめて心の整理を多少なりとも付けられた後だったなら、「そんなこともあった」と懐かしさだけを覚えるだけで済んだかもしれないのに。

「デニスは今、どうしてる」

私が尋ねると、天使の整った顔立ちにふっと影がさした。

「知りたいんですの?」
「知りたいから、聞いている」

その時、天使は私に初めて哀れむような目を向けた。

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