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<<   作成日時 : 2014/12/20 16:17   >>

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深夜。残業をどうにか終わらせて家に帰る途中で、変な奴に出くわした。
男とも女ともつかない、チビなくせに妙に太った吊りズボン姿の奴だ。

「えー、薬、薬はいかがですかー。記憶したいのに最近集中できなくて記憶できない、あるいは忘れたいことがあるのにどうしても忘れられなくて苦しい、そんな辛さを解消してくれる画期的な薬ですよー」

そいつは細身のジュース缶みたいな物がごろごろ入ったかごを片手に、そう宣伝していた。
なんて怪しい物を売っているんだ。きっと持ってるだけで警察のお世話になるような代物だぞ、きっと。
俺はさっさと前を通り過ぎようとしたのだが。

「あっ、そこのお兄さん! お一ついかがですかっ?」

ぐいっと袖を掴んで引き留められてしまった。

「いや今急いでますんで」

目を合わせたら「いける!」なんて思われそうで、俺は顔を向けずに歩き去ることにした。

「いえいえ時間は取らせませんよ」

なんてこった。こいつ、俺の袖を掴んだまま、とことこ歩いて付いてきやがった。

「離してくださいよ」
「はい。これは人類の持ち得ぬ技術で作られた薬でして、この青いラベルの方を飲むと一日だけ記憶力が上がりまして、あらゆる物を記憶することができます。反対に、こっちの赤いラベルの方はあらゆることを忘れさせてくれます。飲んでから忘れたいことを思浮かべるだけで、なんでもきれいさっぱり消してくれるんですよ。即効性があるのは赤いラベルの方ですね」

かごから缶を一つずつ取り出しながら、そいつは嬉々として説明してくる。
その「はなして」じゃねえ。
放っておくといつまでもしゃべり倒しそうなそいつを、俺はにらんだ。

「へえ。で、いくら?」
「一本五百円です」

缶一つでそれは高ぇよ。
でもこれなら、断るための立派な理由になるな。

「いりませんよ。高すぎでしょうが」
「じゃあちょっと、お試しで使ってみませんか? もちろん無料ですよ」

そいつは俺の返事も聞かずに、かごに手を突っ込んで何かを取り出した。
それはさらに小さな缶だった。一口二口ぐらいでもう中身を飲み干しそうなほどの小ささだ。それぞれに赤いラベルと青いラベルが貼ってある。

「こちらは小さいお試し用なので、一時間程度しか記憶力が上がりませんし、一つだけしか記憶も消えませんが……ああでも、効果はちゃんとしてますので、ご安心を」

気が向いたら買ってくださいね〜、とそいつは笑って缶を押し付け、去って行った。
だからいらねえっての。
俺は部屋に帰るとその怪しげな缶を冷蔵庫の中に放り込んで、風呂に入って寝てしまった。


それから数か月の間、俺はそんなことがあったことも忘れて生活していた。
あれからあの変な奴に一度も出くわさなかったからだ。帰宅のルートは変えていないし、あの時と同じ時間帯に帰ることだってしばしばあったのに。
当然、冷蔵庫に放り込んでいた缶のことだってすっかり忘れていた。

その缶が今、俺の前のテーブルにある。
ラベルの色は赤。つまり一つだけ記憶が消える方だ。
本当に効果があるかどうかは疑問だし、むしろ体に悪影響がありそうだが、もうそんなことは構っていられない。
今の俺は追い詰められているのだ。この状況をどうにかできるのなら、何だって試してやる。

――半月ぐらい前、出社前に駅で女に告白された。
同じ電車で通勤していたようで、どっかで俺を見て惚れたらしい。
女に告白されるなんて滅多にないことだが……ぶっちゃけ、ブスに惚れられてもうれしくない。
そういうわけで適当な理由をつけて(さすがにブスは嫌いだなんて言えない)お断りしたんだが、相手にはあきらめる気がないようで、毎日同じ電車のできるだけ近くに陣取って、必死こいて話しかけてくるので大変迷惑している。
通勤時間を早めてみたり遅くしてみたりしたが、出待ちされているらしく無駄なあがきで終わっている。
もっとひどい言葉で拒絶してみればいいんだろうか。
でも、それが元で恨みなんて買ったりしたら……なんて思うと震える。逆上して刺されそうだ。

そんなこんなで仕事も手につかずに悩んでいたわけだが、今日になってふと思い出したのだ。
冷蔵庫に放り込んだままの、赤いラベルの貼られた方の缶の存在を。

俺は缶をバッグに忍ばせた。
明日、この缶をあの女に渡してやろう。
きっと飲む。惚れた相手からもらった物ならきっと飲む。そうに決まっている。
確実さを求めるなら、すぐ飲むように勧めれば良いだろう。

正直関わりたくない相手だが、今後の平穏な暮らしのためだ。打てる手は全て打とう。
俺は浮かんできた冷や汗をぬぐい、ため息をついた。

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