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zoom RSS ネガイネガワレ 11

<<   作成日時 : 2017/03/25 19:05   >>

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自分の名前をひたすら手元の小さな黒板に書き続ける、という初歩の教育は成功をおさめた。
デニスは時間の終わりに一人一人の書いた物を見て回り、ここが違うとかここは上手だとか指導して回っていた。
見た目の良い若い男性が、わざわざ自分を気にかけてくれるのである。この行動は女性達からの高い歓心を得ることとなり、それが結果につながった。
自分の名前を皆の前で書くというテストは全員が一発で合格となった。

だがそれは、別のやっかいな問題を引き起こした。
デニスの前の席が取り合いになるのは些細な方で、勉強よりもデニスを「落とす」方に力を入れ始める者が現れたのである。
彼女らは装飾品なんて望めもしない環境ながら、伸びかけた髪を整え精一杯身綺麗にし、甘ったるい声で「わからないところがあるの」などとデニスに近寄り拘束したがった。
守衛がそれを苛立たしげに追い払い、女性達がにらみ返したり悪態をついたりして応戦する。
そんな風景が常態化した結果、肝心の教育が上手くいかなくなった。
名前書きの次に教え始めた、1から10までを書くという教育のテスト結果は、さんざんだった。
私が一番の成績を収め、他に三人ぐらいが続いた他は合格できなかった。
教育を任されたデニスは、それで上からねちねちと言われたのだろう。
次第に活力と表情を失い初め、何だか優れない顔色で教育の時間中にぼうっと突っ立っていることが増えていった。

かわいそうだ、と私は思った。
こんな閉鎖的な環境の中で、上司や女性達からの感情に振り回されて、色々思うこともあるだろうに必死にこらえて。
せめて私ぐらいは、とまじめに話を聞いてはいるが、やつれる一方のデニスを見れば何の救いも慰めにもなっていないのは明らかだった。

その日の朝も私は、一番に寝床の部屋を出た。
朝食から教育の時間までは少しばかり余裕があるのだが、同部屋の女性達は時間ぎりぎりまで身支度を整えることに余念がなく、部屋を出ないのだ。付き合っていられない。
化粧品はおろかヘアピン一つないここでは、寝癖を直して顔を洗い、ワンピースのしわを伸ばすぐらいしかできることはないのだが、それでも彼女らは念を入れていた。
歩く道すがら、同じ方へ向かう女性はいなかった。つまりみんな、デニスのためのおめかしに夢中ということだ。
うるさいほどおしゃべりな奴と同行するよりはましか。まだ誰も来ていないなら席だって好きなところを選べるのだし。
部屋に入ろうと扉に手をかけたその時。

「デニスの坊ちゃん、そうとう参ってるなありゃ」

室内から守衛の一人のあざ笑う声が聞こえて、私は手を引っ込めた。
どうやら守衛達は先に部屋に入っていたらしい。だが、陰湿な空気を感じ取った私の体は動こうとしなかった。

「坊ちゃん? あんなの成金野郎の妾腹だろ」
「でも俺らよりずーっと良い暮らししてたんだぜ。たらふく食えて、きれいな服着て学校行って。俺らに比べりゃ坊ちゃんさ」
「おまけにあの見た目だろ。そりゃあもう、女が放っておくわけがねえ。毎日毎日、寝癖直したり目やにを取ったり、涙ぐましい努力してんぜ、あいつら」
「あんだけいるんだから、一人二人手をつけたっていいだろうによ。すっきりすんぜ。終わったら金でも握らせときゃいいんだよ。合意の上ですーってな」

げらげら笑う声が重なる。
デニスに向けたものか、女性達に向けたものかわからない下卑た笑い。
その瞬間、背中を伝う冷たい水のように嫌悪感が体を走った。
もしもこの時、私が正義感に燃える人間なら「不愉快な話をやめろ」とばかりに扉を開けて中へ入り込む勇気を見せていたことだろう。
だが現実には、私は黙りこくって、足音を立てないようにそこから逃げるように立ち去っていた。

体。身体。躰。躯。からだ。カラダ。
私はかつての痛みを思い出して震えるばかりの、意気地のない弱虫だった。
歩いて歩いて歩いて歩いて、壁の角に頭を打ち付けたその痛みでうずくまる。やっとかき上げられるぐらいには伸びた髪を、ぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
決して痛みをごまかすためじゃない。痛いのは頭じゃない。別の、手で触れられないほど深いところだ。
息が苦しい。のどの奥からひーっ、ひーっと変な音が出るばかりで、どうすることもできない。息が上手くできなくて、どんどん苦しくなっていく。
私は……私はここで、こんな風にして人生を終えるのだろうか。
どんどん息苦しくなっていく中で、どこか冷静に私は思った。
連れて来られた時は、きっとここが終の住処になると思っていたが……そうで間違いないようだ。ならばもう、じたばたしないであきらめようか。

「まあまあ、大変」

そこへ、覚えのある声が降ってきた。
間違いなくこれは天使の声だ。

「壁に頭をぶつけましたの?」

そう見えるのか。どうでもいい。今は相手をしていられる状態じゃ無い。

「もう、顔くらい上げて頂戴な」

そばにしゃがみこむような気配。呆れたような声。
長年誰にも触れられたことのない頭に、そうっと触れるものがある。
思わず顔を上げると、天使が微笑みを返してきた。

「こぶはないみたいですわね。そのうち痛みは引きますわよ、泣くのはおよしなさいな」

天使の、白いしなやかな手が頭に触れる。撫でさする。
そう言われても、涙なんて流したり止めたりなんて器用にはできない。
私はうめくようにして、ぼたぼたと床の上に涙のしみを広げていた。
……撫でさすられているうち、私の呼吸はしだいに落ち着いた。

「サンドラ、ここにいたのか」

デニスだ。

「時間になっても来ないから、守衛と探していたんだ。具合が悪いのか?」

顔を向けると、昨日よりも力ない様子のデニスがいた。疲れ切っているようにも見える。
そうか、私なんかのために仕事を放り出す羽目になったのか。
ただでさえ協力的じゃない連中ばかりなのに、申し訳ないことをしたな。

「具合が悪いなら今日は休んだ方が良い。君は飲み込みがとても早いし優秀だから、一日ぐらい空けたってすぐに追いつくさ」

気遣わしげな声とともに、デニスが私に向かって身をかがめ、片手を差し出してくる。掴まって立て、と言っているのだ。
これ以上負担をかけるのは申し訳が無い。
私はおずおずと、その手に自分の手を置いた。デニスの手は、かさかさしていたけれど大きくて温かかった。
そのまま引っ張り上げてくれると思っていたが、何故かデニスはそうしなかった。
私の手を握ったまま、ある一点をじっと見つめている。
そこには天使がいる。微笑み、私の頭を撫でさすっている天使が。
だが何故だ。他の人間には天使の姿が見えていないはずなのに……もしや霊感なんてものが備わった人間だと、見えるのだろうか。

「ええと……?」

どう声をかけて良いかわからずにいると、

「天使だ」

デニスは感極まった様子で、ため息交じりにそう呟いた。

「何てことだ。天使がいる」
「あらまあ、何かしら」

天使がその言葉に、小首をかしげて見つめ返している。

「信じられない、こんなこと……」

彼は私からそうっと手を離す。そしてもう一度、手を握る。

「サンドラ……天使が見えるよ。君の手を握ると、天使が現れるんだ!」

天使を見つめるデニスの横顔が、ぱっと明るくなった。
やつれた頬も、さえない顔色も忘れるほどにまぶしい笑顔。それは希望を見いだした人間の顔だった。
あるいは――運命を感じる女性を見つめる男の横顔に似ていた。

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