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zoom RSS はたらく、R氏

<<   作成日時 : 2016/03/19 15:22   >>

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その男の名を、仮にRとしよう。
R氏は平凡な勤め人である。ただし現在は残業と休日出勤が重なり、仕事に嫌気がさしている頃である。
今朝も残業の疲れを少々残しながら起床したところだ。
ゴミを捨てに行くのも面倒になった結果、ゴミ袋二つと同居する羽目になった部屋を見渡し、彼は憂鬱そうに前髪をかき上げた。

「ああ、自分がもう一人欲しいなあ」

何とはなしに、ぼそりと呟く。
彼の発言には、もう一人の自分に仕事とその他諸々の面倒ごとを押っつけて自分は家で寝ていたい、といった辺りの意味がある。

一人暮らしのこの部屋に、言葉を返してくる者はいない。
R氏は出社の支度のため、しぶしぶベッドから起き上がった。
顔を洗って歯を磨き、朝食用の食パンの袋を冷蔵庫から出して一枚だけトーストする。あとは買い置きの缶コーヒー。R氏の朝食はこれだけである。忙しさのせいで、食欲とはほとんど無縁な状態が続いていた。

「自分がもう一人だあ? お前、そいつと会ったら死んじまうって話、知らねえのかよ」

知らない奴の声がして、R氏はぎょっとして振り返った。
するとそこには黒い体に黒い二枚の羽を持ち、額から二本の角を生やした奴がいて、R氏が今しがた起き出したベッドに寝っ転がって雑誌をめくっていた。その雑誌は二ヶ月前に買った覚えがある。ただしその頃から多忙になったため、途中からは読んでいない。
そいつは水着姿のグラビアアイドルのページに来た途端、「おほ」と小さく声を上げ、鋭くとがった針のような物のついたしっぽを揺らした。
明らかに異形のものである。見た者はすべからく「悪魔」と表現するだろう。

声も出ぬほどびっくりしたR氏は、置いてあったゴミ袋に足を取られてすっころび、フローリングの床に頭をぶつけた。
痛い。だがそれよりも目の前のそいつから受けた衝撃の方が勝っていたため、悶絶して転げ回るようなことはなかった。

「な、何なんだよお前っ」

腰を抜かして震え上がるR氏の言葉に、そいつは鋭い牙の生えた真っ赤な口を開けて笑った。

「俺か? 俺はお前ら人間が悪魔って呼んでる奴だよ」
「あ、あ、悪魔!? それが何の用だ、俺の魂でも取ろうっていうのか」
「そんなもんいらねえよ。退屈だったから寄っただけだ」

そう言われても安心できるものではない。
R氏はじっと、そいつ……悪魔とやらに警戒したまなざしを向ける。

「しかしお前、薄っぺらいパン一切れと缶入りの……コーヒーか、そんなもんで済ませるつもりかよ。そんなんじゃ力なんか出ねえだろ」

悪魔はベッドの上に起き上がり、雑誌を枕の上に放り投げた。

「顔色も悪いし目の下にくま作ってんじゃねえか。お前、そのうち死ぬぞ。野菜食え、野菜」

なんで人間の敵のはずの悪魔に、体の心配をされなくてはいけないのだろう。R氏はひどく自分が惨めに思えた。

「……よし、お前に分身をやろう。そいつに働かせて寝てりゃ、疲れも取れるぞ」
「ちょっと待て。さっき、もう一人の自分に会ったら死ぬって言っていなかったか?」
「分身だから大丈夫、会っただけで死にゃしねえさ」

何がどう大丈夫なのかは不明だが、悪魔はさっそく床に向かって手をかざし、かぎ爪の生えた指先でくるりと輪を描いた。
すると床に丸い輪が現れ、そこからR氏と寸分違わぬ見た目の人間がぬっと生えてきた。

「こいつがお前の分身だ。お前と同じ能力で性格も一緒。行動パターンも一緒だ。誰も分身だなんて気づかねえだろうよ」
「そ、そうか」
「だが気をつけな。分身は毎朝出てきて、一日に一回はお前の体に戻らなきゃいけない。戻ったら分身の疲れはお前の疲れに足されるからな。分身には無理させんなよ」

悪魔はそう言うと、すうっと煙が消えるかのようにいなくなってしまった。

「じゃあ俺の代わりに仕事をしてきてもらおうか。ほら、これを着ていけ」

R氏は分身に、着ていくつもりでいたスーツを押しつけた。

(逆らったり嫌がったりするかもしれない)

とはいえR氏は少々不安だったのだが、それは杞憂に終わった。
分身は黙ってスーツを着込み、部屋を出て行った。

(これで、本当に大丈夫なのか?)

R氏は閉じたドアをしばらく見つめた後、ベッドに戻って寝直した。
彼が次に目を覚ますと、もう夕方だった。疲れの取れた体は軽く、沈んでいた気分もすっかり持ち直していた。

「いやあ、やっぱり休みは必要だな。今まで根を詰めすぎていたんだ」

やがて夜になると、分身が仕事から帰ってきた。
疲れた顔でため息をつき、部屋に入ってきた分身は、R氏にまっすぐ向かってくる。

「お、おい、何だよ」

ぶつかるかと思いきや、何の感触もないまま分身は消えた。
そして感じる、体のだるさ。肩のこり。
これが悪魔の言っていた「お前の体に戻る」ということらしい。確かに疲労はこちらに足されている。
昨日までならぐったりするばかりだっただろうが、一日休んだ今なら耐えられる疲労具合である。

(これなら……)

R氏はその日から、分身に仕事をさせてごろごろするばかりとなった。ゴミ捨てすら分身にさせる始末である。
初めのうちは分身が帰ってきても平気になるぐらい回復するまで、と決めていたのだが、その決意はあっという間に鈍ってしまったのだ。
不思議なことではない。働かずとも収入があるのなら誰でも仕事などしたくないものだ。
休暇を取っている時とは違い、仕事に滞りがないことを思えば気楽だった。罪悪感も日を追うごとに薄れていった。

そうしてしばらく経った頃。
その日、分身はなかなか帰ってこなかった。

「やれやれ、ずいぶん残業させられているな」

すっかり他人事のように考え、時計を見ながらぼやいていると、日付が変わろうかという頃になって部屋のドアが開いた。
現れたのは、こんな時間まで働いていたというのに妙に上機嫌な分身である。

「じゃあ、あとはよろしく頼む」

上機嫌の分身が分身がR氏の体に戻った途端、とんでもない疲労感が襲ってきた。
まるで体が泥に変わったかのよう。意識が遠のきかけ、くらくらしたR氏は床に手をついてうずくまった。

(な、何だよこれは)

R氏は今にも倒れてしまいそうなのを耐えて、ベッドにたどり着くと倒れ込んでそのまま寝てしまった。
寝ると言うよりも、気絶といった方が近い倒れ方だった。

翌朝になってもその疲労感は消えなかった。
起き上がって何かをする気にはなれない。今日は一日、寝ているしかなさそうだ。R氏はため息をつき、倒れ込んでいたベッドの中へともぐりこんだ。

一方、体から抜け出した分身は鼻歌まじりで身支度を整えていた。

「……お、お前……昨日、外で何してたんだよ……」

R氏が弱り切った声を絞り出すと、分身はにやりと笑った。

「何って、仕事さ。同僚が何人か休んだから、その分を全部引き受けて、終わらせてきたんだ」
「全部……そんな、無茶な……」
「ああ、無茶苦茶に疲れたよ。でももう、きれいさっぱりだぜ。あんたのおかげでな」

分身は気づいたのだ。
どんなに疲労をためこんでも、R氏の体に戻れば朝にはすっきりしている。ならばこれを利用しない手はない、と。
人間が仕事を嫌がるのは、結局のところ疲れるからだ。その疲れを取るために時間を割くと、その分やりたいことを我慢しなければならない。皆それが嫌なのだ。

――分身には、その不満を簡単に解消できる手段があった。

「これからは何倍も働いて、出世するつもりさ。なあに、初めから俺に仕事させて自分は家で寝ているつもりだったんだから、問題ないだろう。次の給料が入ったら、寝心地の良いベッドを買ってやるよ」

はっはっは、と楽しげに分身は部屋を出て行った。
バタン、と閉じられるドアの音を聞きながら、R氏は、いずれ起き上がることもままならぬであろう将来を思い浮かべ、戦慄していた。

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