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zoom RSS 小春奇譚 三十一

<<   作成日時 : 2015/10/03 14:04   >>

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小春の作った物なら食べた、と聞いた紅は、小春に少年の食事作りを任せてしまった。
炊事係の虫達はこれで楽になると大いに賛同し、かくして小春には新たな仕事が加わることになった。

「で、でも、その分掃除の仕事に遅れます」

小春は、紅から引き受けるよう話があった時、そう言って逃れようとしたのだが。

「掃除は他の虫でも出来るけれど、これは、あなたにしか出来ないことでしょう?」

確かに紅の言うことには一理ある。
虫の作った物では口にしないのだから、食わせるのなら小春が作ってやるしかないのだ。
紅が幸之進以外の男のために手ずから料理をすることは、おそらく……いやきっと無いだろうから。

男に近寄るのはまだ恐ろしい。それが、太兵衛を連想させる要素など持ち合わせない少年が相手であっても、近頃とんと姿を見かけない幸之進相手であっても。
一生涯避け続けるのは無理な話としても、今は、今しばらくは関わらずにいたいと小春は思う。
その理由を問いかけられて、話せるようになるまでは。あるいは打ち明けられる相手が現れるまでは。

だから今回も、小春は断ってしまいたかった。
しかし世間というのは無慈悲である。言われなければ結局、その人の心に負った傷のことなわからないのである。
心に傷を負った者が立ち直るには長い時間がかかるというのに、待ってはくれない。何がしかの役目を与え、まるで何事もなかったかのように振る舞うことを無言のうちに強いる。
仕方なく、心に傷を負った者は痛みを押し殺して常人の顔をする。生きるための糧を得るには、無慈悲な世間に馴染まなければならないのだ。

「拾ってきた奴が死んだと聞いたら、旦那様は大いに悲しむわ。旦那様のお心を、そんなことで曇らせるわけにはいかないの」
「……承知しました」

紅の、その時の目が寒気を覚えるほど恐ろしくて、小春は引き受けてしまった。
一方で、この人が自分の抱えているものを察してくれることはきっとないのだな、という諦念を抱きながら。

仕方なく小春は、その日から少年の分の粥をこしらえ、持っていくようになった。
ただし中へは入らない。ふすま越しに声をかけて、その場に置いて去っていくのだ。膳を下げるのは手当てを任された虫に頼み、小春は何とか職務をこなした。

そんなことを繰り返して十七日の目の昼、事態に変化が起きた。

「小春さんよお、あいつの傷はもうすっかり良くなりましたんで、手当てがいらなくなったんでさあ」

手当てを任されていた虫が台所へとやって来て、少年の分の粥を用意する小春にそう伝えてきたのだ。
小春は何やら胸騒ぎを覚えながら、茶碗にかゆをよそって膳に置き、虫の方へと振り返った。
この時の粥は、体調の良い人間に出す硬さの物だった。
三日前に、手当てを任された虫から「柔らかくしてやる必要はもうない」と伝えられたためだ。

「姐さんもう大丈夫だろうって言いましたんでね。あっしら、もうあいつの部屋に行く用事がなくなりましたんでさあ。次からあいつの膳はあんたが下げてもらえませんかね。あっしら、元の仕事に戻りますんで」
「わ……わかった、そうする」

ぎこちなく答えながら、少年に関わる事柄が増えたことを思い、小春は憂鬱になった。
伝え終えて去っていく虫の背中を見送り、膳に置いた粥入りの茶碗を見つめる。
粥の硬さの変化は、少年が順調に回復しているという証だ。そこから考えれば、近々こうなると簡単に予想がついただろうに。

嘆いても仕事からは逃れられない。どうにか、最低限の関わりで済むよう立ち回るだけだ。
茶碗に箸を添え、膳の支度が整うと、小春はそれを重い足取りで運んだ。

「昼げだ、置いておくよ」

少年のいる部屋の前に立ち、そう告げて膳を置こうとした時、

「待ってくれ、頼みがある」

ばたばたと足音が聞こえて、ふすまががらりと開いた。
小春は驚き、置きかけた膳から手を離して飛びのいた。
床に着いた膳の中で茶碗の跳ねる音がして、小春は一食分を駄目にしてしまっただろうかとひやりとした。
ちらりと目をやると、幸い茶碗はひっくり返っておらず、中の粥がふちにべたりと付いた状態でとどまっていた。
見た目が悪くなりはしたが、駄目にせずに済んだようである。

「……悪い、驚かせたか」

少年がばつの悪そうな顔をする。
虫の言う通り、具合はすっかり良いようだ。布はもう巻かれておらず、顔色も良くなっていて、げっそりしていたのが嘘のようだ。

「いや。それで、頼みって何だ」

小春はぶっきらぼうに聞いた。

「このまま世話になりっぱなしじゃ申し訳ないから、何か、仕事の手伝いでもさせてもらえないかと思ったんだが」

なかなか義理堅いところがあるようだ。
小春は、自分がこの屋敷で目を覚ました時のことを思い出していた。
あの時小春は、くじいた足の手当てをしてもらった上に治るまでただで置いてもらう申し訳なさから言いだしたのだ。
ここを出ても村には戻れず、他に行くところなんて無いという事実に気付いてしまった今となっては、無意識のうちに追い出されずに済むよう振る舞っているが。

少年の場合はどうなのだろう。
しばらく働いたら、出ていくつもりだろうか。彼には帰れる場所があるのだろうか。

「……あたしが決められることじゃないから、紅さんに言っておく」

できれば紅が「これ以上人手はいらないから」と断ってくれるか、掃除係以外のことをさせてくれることを望みながら、小春は答えた。

「で、これが昼げだ」

小春は床に置いた膳を持ち上げ、少年に突き出した。
茶碗の中の粥は、徐々に中の方へと垂れて戻りつつある。

「ああ、すまないな」

受け取った少年の手の先が、小春の指に触れた。
ざらりとした指先の感覚。たちまち全身を嫌な痺れが駆け抜けていく。
小春は思わず、膳を取り落としかけた。

「うわっ、と」

少年が慌てて膳をつかむ。
幸い膳は無事だった。再び茶碗が揺れて中身の粥が淵にべたりと付いてしまったものの、こぼれはしなかった。

「しっかりしろ、足に当たったら間違いなく怪我をするぞ」

さほど強い口調ではないが、少年が小春を叱る。
まっすぐこちらを見る目の力強さに、小春は慄いた。ふいっと目をそらし、きびすを返す。

「……気を付ける」
「お、おい」

小春は足早にその場を去った。
部屋のある廊下の角を曲がり、しばらく歩いたところでふと立ち止まる。
そろそろと顔の前に手を持ってきて、指先を見つめる。
先ほど少年の手と触れた指先。そこから、じわじわと痒みが押し寄せてくるような気がしてならない。
口元が震える。無性に悲しくて苛立たしくて、急に胸が痛くなった。
小春は、思わず前掛けに指先をこすりつけた。
着物よりも厚手の布でできた前掛けは、ざらざらした感触で小春の指先の皮を擦る。

――そのうち、涙があふれてきた。
自分が泣いていることを意識した途端に息が上がってきて、小春は声を漏らさぬよう、ぐっと唇をかんで耐えた。
こすりつけていた指先は、いつの間にか前掛けを強く握りしめていた。

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