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zoom RSS 小春奇譚 二十八

<<   作成日時 : 2015/08/29 14:26   >>

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どうやら少年は、泣いている女の相手をしたことがないらしい。
不慣れな様子で「泣くな」「悪かった」とぎこちなく繰り返し、終始おろおろとしていた。

「……よくもまあ、そんなに泣いてられるな……」

一向に泣き止まず、顔を上げることもしない小春に焦れたのだろう、少年がぼそりとぼやいたその時、蜂の羽音が聞こえた気がして小春は顔を上げた。
すると、すぐ目の前に少年の困惑しきった顔があって、小春は心臓が口から飛び出すかと思うほど驚いた。
「ひ」と小さく悲鳴を上げ、その拍子に体勢を崩して後ろに倒れ込む。

「あ、頭打ってないか……?」

少年が倒れた小春を起こそうと、遠慮がちに腕を掴む。
彼としては親切にしたつもりなのだろう。ごく普通に考えたなら、誰もが優しさの表れと取る行動である。

――だが、小春にとっては。

腕に触れる他人の体温と手の感触が、小春の体に鳥肌を立てた。同時に、ごまかしのきかない嫌悪感と強烈な吐き気が襲って来る。
小春は、無意識のうちに腕を振り回して少年の手を乱暴に振り払っていた。
相手が傷つくだとか変に思うだとか、そんなことを気にする余裕など全く無かった。

「何なんだよ」

不機嫌そうに振りほどかれた手をぷらぷら振る少年をにらみながら、掴まれた部分をさすりつつ、ずりずりとお尻で後ずさる。
とにかく、触れられた感触と温もりを消したくて必死だった。
後ずさるうちにお尻が何かにぶつかって、ばんと音を立てた。ふすまである。残っていたふすまにぶつかったのだ。部屋の中に限ってだが、小春は逃げられる範囲の最大まで逃げていた。
小春は頭をふすまに押し付けるようにして、浅い呼吸を繰り返しながら腕をさすった。
さすってもさすっても、気色悪さがどうしても消えない。
寒いわけでもないのに震えが止まらない。歯の根が合わず、かちかちと音を立てる。そのすき間から、ひゅう、ひゅうと息が漏れる。
ちらりと見れば、さすり続けた部分が赤くなっている。こんなになるまでさすっているのに、ちっとも痛くない。感覚が麻痺してしまっているのだ。

――小春の目に、再び涙がにじみ始める。

(あたし、もう、何もかもおかしいんだ)

このままずうっと、自分はおかしなままかもしれない。太兵衛以外でならという条件はつくものの、男に近寄られても何てことなかった、あの頃の体になんて一生戻らないかもしれない。
そう思うと、怖くて悲しくてたまらなかった。
要するに、小春は最初に泣いた理由からだんだん遠ざかって来ていた。
泣いているうちに次々と悲しい辛い感情だけが浮かんできて、それが小春を泣かせていたのだ。放っておけば、おそらく小春は泣き疲れて眠るまで延々と泣き続けただろう。

「一体何をしているの!」

涙にとらわれた小春を開放したのは、紅の鋭い声だった。
部屋の入口に目を向ければ、蜂を伴った紅が怒りの形相で立っていた。普段は色気を帯びたたれ目は釣り上がり、赤い唇は感情の高ぶりのために震えている。
整った顔立ちの者が浮かべる怒りの形相というのは迫力があり、見ている側は気圧されるものである。
小春はそれ以上涙が出て来なくなり、小さくしゃっくりをするだけになった。

「旦那様の拾った奴が、目を覚ますなり狼藉を働いているというから来てみれば……」

紅は二人の間に割り込むと、小春をかばうようにして立った。

「離れなさい。二度は言わないわよ」

紅の声は静かだが、有無を言わさぬものがあった。
少年は気まずげに頭をかきながら、小春から離れて座り込んだ。

「小春さん、大丈夫? 怪我はない?」

打って変わって穏やかな声になり、紅が小春に向き直って膝をつく。
何故か言葉が出て来なくて、小春は代わりに数回頷いて返事の代わりにした。

「ごめんなさいね。虫に任せておけばこんなことは起きないと思っていたのに」

申し訳なさそうに眉根を寄せる紅に、小春は首を傾げた。
こちらが教えていない以上、紅は小春が男に対して恐怖と嫌悪する理由を知らないはずで、頭を下げる理由などない。
もしやこちらの事情を察したのだろうか、と小春が戸惑っていると、

「蜂に聞いたわよ、こいつが目を覚ますなり押さえこんできたんでしょう? 本当に申し訳ないわ。虫の奴らが小春さんに介抱を押し付けるなんて思わなかったから……」

(……誤解だ)

小春はようやく、紅が誤解していることに気付いた。
彼女は「何かしらの事情で虫の代わりに小春が介抱に行き、そこで目を覚ました少年に襲われかかった」と誤解しているのだ。
そういえば少年は上半身が裸の状態だ。あちこちに布は巻かれているが。
そんな格好の少年と、震えて泣いている娘とが一つの部屋にいたとしたら、「少年がいかがわしいことをしようとした」なんて誤解されても不思議ではない。
紅が虫達に介抱を命じた理由がうかがい知れた瞬間だった。
彼女は小春の事情を知っていたのではなく、単に男女を一緒にしておくのはまずいと判断したに過ぎなかったのだ。

「あ、あの、紅さん、違うんです、あたし、何かされたわけじゃ、なく、て」

小春は時折しゃくりあげながら弁明を試みた。
男女の間では様々な誤解が生じるものだが、この手の誤解は一番たちが悪く、名を貶めるものだ。放っておくと大変なことになってしまう。

「庇うことなんてないのよ? さぞ怖かったでしょうに」

なのに紅はそう言って、小春に憐れみの目を向けてくる。完全に「そう」だと思い込んでしまっている様子だ。

「腕はどうしたの? まあ、大変。真っ赤じゃないの。押さえこまれた時に痛めたのかしら。あとで薬を塗らなきゃ……」
「何もされてないんです、腕はその、とにかく、何でもないんです」
「紅どの、押さえこまれたのは小春どのではなく、虫ですぞ」

蜂が紅の肩のあたりにとどまりながら冷静に伝える。すると紅は蜂を見つめたまま、しばらく身動きもせず黙っていた。
――やがて。

「それを早く言いなさい」

早口にそう言うと、ひらりと手を振って蜂を追いやった。

「わたくしはちゃんと申し伝えましたよぉ」

紅の手を避けて離れたところへ飛び去りながら、蜂が不満げな声を上げる。

「で? その虫はどこなの」
「逃げて他の虫達に運ばれました。この者がわたくしを叩こうとして力が緩んだのでしょうな、その隙に這い出して逃げることに成功したのです。まあ、怪我はないようなので明日には仕事もできるでしょうな」
「そう」

蜂の言葉に大して興味もなさそうに答え、紅が少年に向き直る。
少年はいつの間にやら衣服を整え、白襦袢をきちんと着ていた。巻かれた布のせいで、あちらこちら着ぶくれしている。

「ひどい誤解だぞ」

少年は気分を害した様子で紅をじろりと見る。不愉快さを存分に伝える態度だった。

「それに関しては謝るわ。でも……よそ様の家で起き抜けに家人に乱暴したという事実に変わりはないわね」

謝罪の後にすぐさま指摘が付け加えられ、それにむっとした様子で、少年が眉を吊り上げる。

「あんな化け物が目の前にいたんだぞ。誰だって食われるか何かされると思うだろ」

少年は険しい表情を浮かべ、こちらを見る。まるで威嚇する犬か猫のようだ。

「だいたい、あれが家人だって? 冗談じゃない、あいつらは化け物で、人間の敵だ! どんな手で飼い慣らしたか知らないが、いつか絶対に人間を食い殺そうとするぞ!」
「心配には及ばないわ。あなたの常識では考えられないことでしょうけどね」
「そうやって油断していたら、
聞く耳持たぬという様子の少年に、紅がため息をつく。

「ずいぶん嫌っているようだけど、あなた、あいつらに何かされたの?」
「……あいつらには、されてない」

少年がふてくされた顔で、ぼそりとつぶやく。

「なら、その辺にしておくことね。治りきってない傷を抱えたまま屋敷から追い出されたいっていうのなら、好きにするといいけれど」

紅が少年の右腕のひじから下辺りを指しながら告げると、少年はさっと左手でそこを隠した。
見れば少年の腕に巻かれた布に、赤い血がにじんでいた。虫を押さえこんだ時に傷口が開いたのだろうか、赤くにじんだ部分はみるみる広がっていた。

(それとも、あたしがさっき振り払ったせいで……?)

自分が振り払った手も、確か右側だった気がする。布を巻いた所に手が当たったような気がしないでもない。夢中だったので確かな事は言えないが。

(もし、そうだったら)

謝らなくてはいけない。
だが小春の口は貝のように固く閉じたまま、ちっとも動かなかった。
動かせなかった。少年がこちらを見たらと思うと、身のすくむ思いがした。それではいけないとわかってはいるのだが。

「紅どの、旦那様へのご報告はどうしましょうか。目を覚ましたら話をしたいとおっしゃっておりましたが」
「私から伝えておくわ。対面は当分の間、無理でしょうけど」

紅がちらりと少年に目をやる。
視線を受けた少年が、たちまち警戒した様子で紅を見据える。

「いいこと。あなたはこの屋敷の主たる旦那様に拾われて、手当てを受けているのよ。少しでもありがたいと思うなら、どう振る舞うべきかわかるものだと思うけれど?」

少年の返事はない。
紅はそれに別段かまう様子も無く、「さ、小春さん」と腕を伸ばして小春を支え、立ち上がらせようとする。
背中に当てられる手の温もり。肩にかかる手の重み……相手が女性なら、触れられても恐くない。
小春は出来の悪いからくり人形のように、ぎくしゃくした動きで立ち上がった。
泣き過ぎたせいなのか、立ちくらみがする。小春は目を閉じ、頭を締め付けるような感覚が消えるのを待った。

「今日はもう休みなさい。仕事のことなら大丈夫、小春さんの分も虫に働かせるから」

小春の青白い顔を見て、紅が気の毒そうに眉をひそめる。

「なあに遠慮はいりませんぞ。何せ、小春どのが来る前は虫だけで掃除の仕事をしていたのですからな」

蜂が近くを飛び回りながら
どうやら紅は、小春と違って虫達と一緒になって掃除をしたりはしなかったようだ。

「はい、休ませてもらいます……」

小春はその厚意に甘えることにした。
確かにこれでは仕事どころではない。できれば今すぐ横になりたいぐらい、心身ともに弱っていた。

「後で手当てに虫をよこすわ。血まみれでいたくなければ大人しくすることね」

小春を支えて歩き出そうというその時、振り向きざまに紅が少年に言い残す。
少年の右腕に巻いた布は、まだじわじわと赤い色の範囲を広げていた。

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