プラスマイナス1

アクセスカウンタ

zoom RSS 小春奇譚 二十二

<<   作成日時 : 2015/07/19 12:51   >>

トラックバック 0 / コメント 0

「小春さん、おはよう」

朝。
身支度を整えて自室を出た小春は、紅に出くわした。
空の膳を手にしているところを見ると、これから幸之進のために朝げの用意をするようだ。
紅の態度にはもう、とげとげしさも冷たさもない。ごく普通に、何もなかったように、以前のように小春に接している。
それが小春にはとてもうれしかった。それだけのことがたまらなく幸福に思えた。
やはり平穏というものは人の心を穏やかに満たすものだ。

「お、おはようございます」

小春はおどおどと頭を下げ、挨拶を返す。
そんな小春に紅はうっすらと苦笑いを浮かべ、

「……今までのことは水に流して頂戴、ね」
「は、はい」

一つうなずくと、紅はしずしずと歩き出す。小春と同じ方向だ。
隣に立って、一緒に歩いても良いのだろうか。
小春は様子をうかがいながら、追いつかないよう気を使って紅の後をぎこちなく歩き出す。

「そういえば、小春さん」

と、紅の方から歩調を合わせて来た。一緒に歩こう、ということだ。
小春はようやく、ぎこちない歩き方から解放された。

「何でしょうか」
「その……あいつらの中に具合の悪いのがいるっていう話はどうなったのかしら」

あいつら、と言えば虫のことに違いない。
紅が少しばかり言いよどんだのは、それが小春を遠ざけていた頃の情報だからだろう。無理もない。返事もしないどころか、目を見てもくれない状態で小春の報告を聞いていたのだから。

「それが、まだ具合が悪いようでずっと休んでいて……」

小春は目を上に向け、思い出しながら答える。
具合の悪い虫はまだ働きに戻らない。そのため、ずっと一匹足りない状態での仕事が続いている。一匹足りない程度ならば何とかなるのでさほど問題視してこなかったが、こうも続くところを見ると、よほど具合が悪いようだ。
しかし食欲がないわけではなさそうで、食事のたびに他の虫達が茶碗に粥をよそって持っていくのを見かける。その茶碗が毎回空になって台所に届けられていることも、小春は把握済みである。

「困ったものねえ。仮病でさぼっているのなら、遠慮なく脅しつけてやりなさいな。甘やかすと付け上がるだけよ」

ため息をこぼし、紅がぼやく。
脅しつけるなど、とても自分にはできそうもないのだが……小春は力なく笑い、うなずいてごまかした。

「それとも、そろそろ寿命なのかしらね」

ぽつり、と続いたその言葉に、小春は思わず笑みを引っ込めて紅の横顔を見つめた。

「え……」
「あいつらは長く生きられないのよ。何せ虫ですものね。いいところ、二年か三年ぐらいかしら。そういえば昔、やたらと頑丈なのがいて、そいつは五年も生きていたけれど」

(そうか、それぐらいしか生きられないのか)

そう思うと、急に彼らが哀れになってくる。
二年か三年ぐらいしかない一生を、この屋敷で働き詰めで終える暮らしというのは幸福だろうか。
普通の虫は冬が来たら死んでしまうし、食べ物だって自力で得なけらばならない苦労はあるが……。

「あら、心配いらないわ。死んだって新しいのを連れてくれば済む話だから。新しいのはいくらでもいるのよ」

沈んだ顔の小春に、紅が明るい声を上げる。
ゆうべ仲直りをしておいて早々、小春の心中にもやもやとしたものが立ち込める。
いがみ合いなんてしたくないけれど、虫のことを軽んじるという点については受け入れられそうにない。おそらく、この部分はあきらめる他にないのだろう。

「それじゃあね、小春さん。今日も仕事に励むとしましょう」

先ほどの発言をした人とは思えない、実に優しげな微笑みを浮かべて紅が台所の方へと向かった。
小春がこれから朝げを食べるために向かう大部屋とは反対向きの方向だ。
軽く頭を下げ、小春は紅の背中を見送った。

(新しいのはいくらでも、か)

何という傲慢な言葉だろうか。自分に向けられたくない言葉だ。
嫌なことや辛いことだらけの日々をかいくぐるようにして懸命に生きて、そうして今ここにいるというのに、それを否定され笑われているようなものではないか。

判官贔屓というわけでもないが、小春は具合の悪い虫のことがにわかに気になりだした。
どの程度の状態なのか、やはり確かめておかねばなるまい。虫達の部屋に行けば会えるだろうか。

(朝げの後にでも、様子を見に行こうかな)

虫達の部屋に行ったのは、紅に連れられて行ったあの時一回きりだから場所の記憶が曖昧だが、粥を持っていく虫達に付いていけば間違いないだろう。
掃除の仕事の前に済ませるのなら、食事を早く済ませてしまわなければ。
下げた頭を戻した時、小春の懐に違和感があった。
かさり、とかすかな音がして、中で衣類とは違う固さの物が存在を示している。

(ああ、そうだ)

そういえば昨夜、紅の部屋に行く時に紙切れを拾ったことを小春は思い出す。確か、蜂に付いていくために後回しにして、たたんでここにしまったのだ。
自室に戻った時にはすっかり忘れていて、今朝も紙切れのことなど全く頭にないままこれを着た。
なのに変わらずここにあるということは、紙切れは小袖の懐にくっついているということだろう。きっと、たたんだのが台無しになった状態で。
懐から取り出してみて、小春は思わず「あれ」とつぶやいた。
ふところから取り出した紙切れは、どういうわけかぱりぱりと割れて足元に落ちたのだ。手元に残った物を見れば、まるで、釜から吹きこぼれて張り付いた米汁のようだ。
小春は首をかしげる。
これはどうしたことだろう。昨夜は確かに、がさがさした面とつるつるした面のある紙切れの感触だったはずだが。

いくら考えてもらちが明かない。それよりも、ここをきれいにしておかなければ。散らかしたのが自分である以上、飯の後で、などと悠長なことは行っていられない。
足元に落ちた物を手早く拾い集め、小春はほうきとちり取りを求めてそこから去った。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

小春奇譚 二十二 プラスマイナス1/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる