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zoom RSS 小春奇譚 十九

<<   作成日時 : 2015/06/27 14:45   >>

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今日の朝飯の雑炊は、落とし玉子に菜っ葉入りだった。
手早くかきこんで手を合わせ、何気なく室内を見渡すと、虫達が数匹、鍋の周りに集まっているところだった。虫達が普段食べる方の雑炊が入った鍋である。
初めはお代わりの順番待ちかと思いきや、どうも違うようだった。というのも、茶椀を持っているのがどう見ても一匹だけなのだ。
何をしているのだろう、と小春がぼんやり見ていると、茶碗を持った一匹がこちらを見た。

「いやあ、具合の悪いのがいるもんで持ってってやるんでさあ」

そいつはそう言って、茶碗を持ち上げて見せる。ふちの欠けた、古びた茶碗だ。虫達の茶碗は共有で、どれもこれも使い古しである。今の所、新調するつもりはないらしい。

「そういうわけで、今日は頭数が足りませんぜ。姐さんにそう伝えておいてもらえますかい。なあに、心配いりませんよ。そいつは夕べ、ちょっとばかし水を飲み過ぎてましたんでね、それで腹でも下したんでしょうよ」

小春がうなずくと、虫達はそろって部屋を出て行った。

「あっしらは、掃除までには戻りますんで」

そう言い残して。

朝飯を済ませると、少しの食休みを挟んだ後にいよいよ本格的に掃除の始まりである。
雑談に興じる虫、寝転がる虫のいる中、空になった鍋と使用済みの食器を運び出す炊事係の虫達が大部屋をせせこましく動き回っている。
小春はしばらくぼうっとした後、大部屋を出た。
掃除の始まる時刻ではないが、紅に休みの者がいると伝えなくてはいけない。連絡は仕事前にしなければ。小春は紅の姿を探して屋敷内を歩き回った。
歩くたび、ふわりと良い香りが鼻孔をくすぐる。懐にしまった匂い袋からのものだ。
小春は懐からそれを取り出し、眺めた。

(どうしよう)

このまま持ち歩いていても良い物だろうか。小春は悩む。
持っていても仕事に差し支えることはないだろうが、どこかで落としてなくしでもしたら幸之進に対して気まずい。
紅に連絡をしたら、部屋にでも置いていこう。
そんなことを考えていると。

「小春さん」

紅の声が小春を呼んだ。
ちょうどいい、探し出す手間が省けた。具合の悪い虫がいることを伝えよう。
小春は「はい」と返事をし、声のした方を向いた。
紅はつかつかとこちらに近寄ると、息のかかりそうな距離で足を止めた。
今までこんな間近なところに紅がいたことはない。小春は戸惑いながら後ろに引いた。

「べ、紅さん」

いつもと違うのは立ち位置がやたら近いという点だけではない。常に微笑みを絶やさぬ美しい顔が、どういうわけか無表情だ。
たれ目の黒い瞳が、じいっとこちらを見つめてくる。おそろしく静かだ。

「あの、具合の悪い虫がいるんです。それで、今日一日仕事を休むって……」
「あなた、一体どうしたの」

小春はさらに戸惑った。
こちらは具合の悪い虫の話をしたはずなのに、返ってきたのはどう考えてもそれに対しての言葉ではない。
この距離で話が聞こえなかったとは思えない。

それに「どうした」と言われても、何のことかわからない。
いつもの服装にいつもの髪の結い方、それに体のどこかが不調ということもない。
小春は首をかしげ、紅を見た。

「旦那様と同じ匂いがするわ。どういうことなの」

そこで小春はようやく理解した。そうか、匂いのことなのか、と。
確かに今まで何かの香りを発するような物など持ち歩いていなかったのだから、異変といえば異変に違いない。

「ああ、旦那様に匂い袋をいただきましたので、それのせいです」

小春は今しがた懐から取り出した匂い袋をそっと差し出し、紅に見せた。
悪気も他意も全く無かった。
だが次に起きた変化により、小春は己のしたことについて後悔することとなった。

「旦那様が……」

みるみるうちに、紅の無表情だった顔が全体的に強張り始めたのだ。
強張るということは、少なくとも良い感情を抱いての変化ではないということだ。もしそうならば顔の筋肉は緩むはずなのだから。
小春はおろおろと紅にかける言葉を探した。
彼女はきっと怒っている。小春が幸之進に匂い袋をもらったということについて、許しがたいと思っている。
一体どんな言葉をかければ、彼女は納得して許してくれるのだろう。
謝れば良いのか詫びれば良いのかすら、小春にはわからない。

どちらかが、あるいは互いに好意を寄せている男女の間において、物のやり取りというのは特殊な意味を持っている。そういった間柄では、思い人から特別に扱われることが何よりの悦びなのだ。自分ももらったから他の相手……特に同性がもらっていても許せる、という者はまずいない。取りわけ、似た物をもらったとなれば。
それは子供のおやつとはわけが違うのだ。小春に落ち度があるとしたら、その点が理解できていなかったというところだろう。

「お寄越しなさい」

紅は唐突にそう告げた。口調は静かだが、その目が有無を言わせぬほどに小春を威圧していた。
小春は自然と身を縮めながら、じりじりと紅から後ずさっていた。

「匂い袋なんて必要ないでしょう。あなた、誰かに臭いなんて言われたの?」
「いえ、そうではないです、けど……」

小春はのどの詰まるような感覚を覚えた。
誰かに強く言い募られると、こうなってしまうのだ。そしてだんだん、物が言えなくなっていく。

「なら必要ないわよ。あなたは臭くなんかないんだし、そんなことを言う虫がいるんなら、それこそ足をもいでしまいなさいよ。出来ないって言うのなら私が代わりにやってあげてもいいわ。頂い物を突き返したら旦那様の気を悪くするって心配しているのなら、大丈夫。私から上手く言っておいてあげるから」

口調だけはいつも通りのまま、紅がずらずらと言葉を並べる。
一見小春を気づかってくれているような言葉ばかりだが、真意は違うことぐらい、どんな馬鹿でもわかるだろう。

「小春さんは大人しいから、結構ですの一言が言えなかっただけなのよね、そうよね。旦那様にも困ったものだわ、相手の話も聞かずに物を押し付けたりして……」

さあ、とばかりに紅の白くしなやかな手が伸ばされる。こちらによこせ、と言っているのだ。
この状況で拒否のできる人間はおそらくいないだろう。それに小春は、誰にも渡したくないほどこの匂い袋を気に入って執着しているわけでもない。
小春はおずおずと、匂い袋を紅の手の平に置いた。

「あの、それで、具合の悪い虫がいて……」

小春はもう一度、具合の悪い虫の話をしようとしたが、紅は無言で足早に去ってしまった。
ここに来てから初めて受けた、紅の冷たい態度だった。こちらの話に対して返事もせず立ち去るなんて、紅はこれまでしたことがなかった。

(あたし、大変なことをしてしまったんだ)

痛感した途端、小春は目の前が一気に暗くなった。
こちらは誰の気分も害せずに済むように配慮したつもりだったのに、そんなことは何の意味もなかったのだ。それどころか、かえって悪い結果を招いてしまった。

(どうしよう……)

そして急に恐ろしくなってきた。
紅はもう、以前のように接してくれないかもしれない。
もし辛辣な態度を取られたら、邪険にされたら――?

(嫌われるようなことをするつもりじゃ、なかったのに)

足元が崩れるような錯覚を覚え、小春はうずくまった。
じわりとにじむ嫌な汗。振るえる吐息。
心臓の鼓動の音が、やけに大きく聞こえた。


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