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zoom RSS 小春奇譚 十八

<<   作成日時 : 2015/06/20 12:02   >>

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かんかんかん、と打ち鳴らされる鐘の音で、屋敷で働く者達の一日は始まる。
途端に空気が動き出し、屋敷内に活気があふれていく。真っ先に仕事に取り掛かるのは炊事係だ。もたもたしていると掃除係や洗濯係の仕事が遅れるということで、彼らはてきぱき仕事をしている。
いつもなら虫達が食べる雑炊だけを作っていれば済むのだが、今は小春がいるために二種類作る必要があり、さらに小春の分は日によって具材を変え、漬物も付けてくれるため、その分手間がかかっているようだ。
小春はその点について少なからず申し訳なさを感じているが、「暇をもてあますよりは良いってもんでさあ」と彼らは気にしていない様子だった。
炊事係と並んで調理に追われているのは紅である。無論、幸之進のために作っているのだ。それと、一緒に食べる自分の分を合わせた二人前を彼女はいつも作っている。

そう、紅はいつも幸之進と一緒に食事をしていた。幸之進がいるらしいどこかの部屋へと、何度かに分けて膳を運び込んでいる。幸之進に出す方の膳にはいつも見た目も良く美味しそうな主菜と様々な副菜が添えられていて、一目でそれと知れた。
その膳に乗る皿や椀、箸などの一揃えはそれぞれ、幸之進と紅の専用である。そこまでなら別に驚きには値しないが、料理に使う道具まで別にするこだわりようである。彼女は心底、虫達を見下しているらしい。

「私、食事は旦那様といつもご一緒しているけれど……小春さんもいかが?」

初めにそう誘われたものの、小春は遠慮した。置いてもらっている身の上でそんな待遇を受けるのはとんでもない、と考えてのことだった。
一度断ると紅はもう誘ってこなかった。おそらく善意から申し出たことで、本当は幸之進と今まで通り二人きりで食事をしたかったのだろう。紅が幸之進に思いを寄せていると知った今は、無遠慮に受け入れなくて良かったと思うばかりである。

ちなみに小春の茶碗と箸は客人用で、これまた虫達とは別の物である。
客人用と知って小春は驚き、もったいないと使うのをためらったのだが、

「虫なんかと同じ茶碗で物を食べるなんて、気持ちが悪いじゃないの」

紅が虫達に対して冷めた目を向けながら答えたので、それ以上何も言えなかった。
所詮、自分はよそから来て一時的に置いてもらっている身の上である。それがあれこれ言うのは、ただ文句を言って負担をかけているだけのような気がする。
負担をかけるのはいけないこと。いつからか根底に芽生えたその意識が、小春に沈黙を選択させたのだった。大人しく受け入れていれば、取りあえずは負担をかけずに済む、と。
本心では、虫達に対する紅の態度はひどいと思っているのだが。

――また、新しい一日が始まる。
あてがわれた部屋で目を覚まし、小春はいそいそと起き上がった。

小春にあてがわれた部屋はさほど広くない。布団を広げると畳一枚分の余裕がある程度のものだ。
身だしなみを整えるといっても髪を結わえる程度しかせず、持ち込んだ物もないので小春には十分すぎるほどの広さだった。ましてや今までの暮らしを思えば、自室があって真新しい布団で寝られるというのは贅沢なことである。

(一日、何事もなく終わりますように)

抜け出した布団をたたみ、着替えて髪を結い終えると、小春は部屋を出る前に心の中で小さく祈る。
いつからかそうするのが癖になっていた。何事もなくその日が終わる――ただそれだけのことが、どれほどありがたいかを知っていればこそのことである。
派手に楽しんだり大きな賞賛を得ることを人生において良しとする者もいるが、小春はそれらを望まない。

小春は部屋を出て、食事をする大部屋へと向かった。朝飯を食べるためではなく、掃除をするためだ。掃除係は、朝飯の前にそこを掃除するのが最初の仕事である。その間に炊事係が雑炊を作り終えるのだ。
まさに朝飯前の仕事である。
小春の部屋は虫達の部屋からは離れた場所にあるため、大部屋に行くまでにすれ違う虫はいない。
遠くに虫達のざわめきを聞きながら、小春は長い廊下を歩いていた。

「おはよう小春」

不意に声をかけられて、小春は「ひゃ」と飛び上がった。
いつも誰もいないので、すっかり油断しきっていたのだ。

「驚いたかい、ごめんごめん」

ばくばくと大きな音を立てる心臓を押さえながら振り向くと、幸之進が袖に手を入れて立っていた。
その声には苦笑がにじんでいる。

「旦那様、お、おはようございます」

小春はそっと頭を下げる。
彼と顔を合わせるのはこれが二回目である。幸之進はいつも「御役目」とやらを果たすため、基本的には出歩かないからだ。そのため、最初にここに来た日から姿を見かけていなかったのだ。
御役目というのがどんな内容かは想像もつかないが、おそらくはじっと部屋にこもっていなければこなせないもののようだ。

「それで、ここでの暮らしには慣れたかい」
「はい、おかげさまで……みんな、良くしてくれますから」

まだ静まらない胸の中に、じわりと苦いものが広がる。
嘘ではないが、本音でもない。確かに、ここでの暮らしは平穏だ。衣食住、村にいた頃とは全てが比べ物にならない。
ただ一つ、紅が虫達に対してひどい態度を取るという点にさえ目をつぶれば。

「仕事の方は? 辛くないかい?」
「大丈夫です。何とか慣れてきましたから」
「そうかそうか、頑張っているんだな」

何やら頷くと、幸之進は袖に手を入れた。
そして。

「実はこれをあげようと思ってね、ここを通るのを待っていたんだ」

そう言って、何やら若草色をした小さな巾着袋を取り出した。握った手の中にすっぽり隠れてしまう小ささだ。
その巾着袋が出てきた途端、幸之進から漂う、えもいわれぬ不思議な、甘いような優しいような気持ちにさせる香りが強まった。

「これは……?」

小春は差し出されたそれを、困惑気味に見た。
見たことのない物への困惑。そして、なぜ自分に軽々しく物をくれるのかという戸惑いがあった。

「匂い袋だよ。僕が持ち歩いているのと同じ物さ。若い娘なんだから、こういう者の一つや二つ、あこがれるだろう?」

匂い袋とは、香りのする樹皮を刻んだ物や樹脂を砕いた物を調合し、和紙に包んで巾着袋に入れた物である。
調合次第で香りはさまざまであり、香りを楽しむためやお守りとして持ち歩く他、箪笥に入れて防虫に使ったりもする。

「そ、そんな」

小春はさっと両手を後ろに隠した。
紅のことが脳裏をよぎる。
幸之進のことを好いているという紅が、このことを知ったらどう思うだろう。
好きな人が自分以外に親切にしたと、物をあげたとわかったら面白くはないはずだ。

自分だけもらえなかった、という状況が人にどんな思いを抱かせるかについて、小春はある恐ろしい話を伝え聞いたことがある。
それは小春がまだ生まれる前に村で起きたという、とある兄弟の話だった。
とある家の兄が、たまたまその場に居合わせなかったというだけの理由で、親からおやつをもらえなかったという。ただでさえ貧しい村のこと、おやつは毎日もらえる物ではなく、大人から見ても貴重だった。
もらえなかった兄は抗議をしたが「その時いなかったお前が悪い」と聞き入れてもらえず、腹いせに親が野良仕事に出ている隙に弟をいじめ、ぶったり蹴ったりした。
さらに、自分が任されている薪割りの仕事を押し付けた。弟は泣き止まぬまま、やり方も知らずに生まれて初めて薪割りをした。
やり方を知らぬ人間は、慣れた人間なら決してしないようなことを平気でする。弟は片手で薪を持って立てたまま、鉈を振るったのだ。
結果、その手元が狂い、鉈は薪を押さえる弟の親指を落とした。

(もしも、あたしがこれをもらったら)

紅は自分を攻撃してくるのではないか。紅と自分は、その兄弟のようになるのではないか。

――腕か足を、もがれちまうかもしれませんよ――

自分を見上げてくる黒い眼球の記憶がよみがえる。
小春は足先がしびれてくるような気がした。恐怖で足がすくんでいるのだ。

「ほら。遠慮はいらないよ。手を出して」

幸之進は小春の内心になど気付いていないようだ。無邪気に小春の手を要求している。

「で、でも」
「もしかして、この香りは嫌いなのかな」
「違います、その、いい匂いだなって思います」
「……じゃあ、どうして受け取ってくれないんだい?」

なかなか受け取ろうとしない小春に焦れたのか、幸之進の声が若干いらだっているように思われた。
いよいよ小春は追い詰められる。
どうしたら良いのだろう。いらないと固辞して幸之進の気分を害したら、それはそれで別の問題を起こしそうだ。でも受け取ってしまったら紅がどんな態度を取るか。
誰の気分も害することなく丸く収めるにはどうすれば良いのだろう。

「あの」

その時小春の頭に、ひらめくものがあった。

「紅さんには、こういう物をあげないんですか」

受け取らないという選択肢を選ぶのは厳しそうだ。だが受け取れば紅が黙ってはいまい。
ただ、紅が先にもらっていたのなら受け取っても大丈夫ではないだろうか。小春はそう思った。

「ああ、紅には何度かあげたことがあるな。この香りの物じゃないけど」

幸之進は首をかしげ、思い出すような仕草を見せる。
小春は少し安心した。
紅も匂い袋を受け取ったことがあるのだ。それも何度も。それなら受け取ってしまうのが一番角が立たないはず。

「それなら……ありたがくちょうだいします」
「遠慮深い子だね、小春は」

おずおず差し出した小春の手を包み込むように、幸之進が手を添える。そうして小春の手の平に、匂い袋がそっと乗せられる。
人の手が触れる感触に、小春は声をあげそうになった。

「どうしたんだい」
「いいえ、なんでも……」

ぐっと腹に力をこめ、こらえる。
――忌々しいといったらない。嫌でも思い出してしまったのだ、あの男のことを。

(大丈夫、この人は太兵衛じゃない)

何度も自分にそう言い聞かせ、今にも震えだしそうな体を落ち着かせる。
そう、今この手に触れているのは太兵衛の手ではない。ここに太兵衛はいない。第一、手が全然違うではないか。
幸之進の手は健康そうな色の肌に覆われていて、指先は角ばっている。あんな生白いひょろひょろした手ではない。

そう考えて、小春は太兵衛の記憶を何とか追いやった。
匂い袋を渡すだけならもう用は済んだはずだが、どういうわけかその手は離れようとしなかった。

(こんな所を見られたら)

太兵衛の記憶を追いやると、今度は紅のことが頭をよぎる。まったく忙しない。小春に照れて恥じらう心の余裕はなかった。

「あ、ありがとうございます、大事にします」

小春はさっと手を引っ込めると匂い袋を懐にしまい、「これから仕事に参りますので」と一礼してその場を去った。

――その自分の判断がいかに甘かったかを、小春は知ることとなる。

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