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zoom RSS 小春奇譚 十

<<   作成日時 : 2015/04/25 14:49   >>

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「小春、待てよ、待てってんだよ!」

後ろから、殺意のこもった怒鳴り声がする。
振り返れば、太兵衛が目元を押さえながら、手探りでこちらに向かってくるところだった。
のどの奥から、「ひ」という音の息が漏れる。

「黙って股開いて、大人しくしてりゃいいんだよ! 寝っ転がってりゃ、それで済むだろうが!」

浴びせられる欲望むき出しの罵りの数々。
それが聞こえない所へと行きたくて、逃げたくて、小春は懸命に足を前へと進める。神社から、追ってくる太兵衛から離れた方へと向かって。
――それが正確にはどの方角に向かっているかなど、考える余裕すらない。
ふだん立ち入らない場所。その上時刻は夜。小娘一人を山中で迷わせるには十分な条件がそろっていることなど、知る由もなかった。
道に迷った人間は、先へ進んでいるつもりで同じところをぐるぐると回っているという。小春もまさにその状態で、迷ったという自覚もなく、ただ疲労をため込むばかりだった。
石や木の根が行く手をさえぎる。落ちている木の枝や落ち葉が足をもつれさせる。
小春は何度も転び、そのたびに太兵衛に追いつかれる恐怖に取り付かれて起き上がり、走り出すということを何度も何度も繰り返した。

そうして、どれぐらい走り続けたのだろう。
小春の足が、ついに止まった。

(……ほんの少しだけ。これ以上はとても、走れない……)

小春は近くの木に寄りかかって、犬のように荒い呼吸を繰り返した。
体が熱い。体の中が引きつれたように痛い。走るのをやめたら噴き出す汗がにわかに増えた気がする。
汗をぬぐおうとして、小春は急に吐き気を覚えた。
首筋を汗が伝っている。太兵衛が先ほど舌でなめた辺りだ。

(気持ち悪い!)

小春は乱暴に着物の袖でその部分をごしごしとぬぐった。
汗は拭き取れたが……あの気色悪い感触がまだ残っている気がして、何度も何度もぬぐい続ける。
そうせずにいられなかった。たとえあの感触、記憶がぬぐい切れるものではないとしても。
皮膚が赤くなり、血がにじみ出してきても、小春はぬぐい続けた。痛みよりも、気色悪い感触の記憶の方が強烈だった。

「おおい、小春、どこだぁ……」

遠くから、太兵衛の声が聞こえた。何とも、恐ろしくあきらめの悪い男である。
……立ち止まってもいられない。
小春はふらふらとまた、歩き出した。
だが、数歩と行かぬうちに、突然ずるりと足が滑って体が地面に叩きつけられた。たちまち、視界が落ち葉の積もった地面で埋め尽くされる。
滑り落ちているのだ、と理解が追い付いた時には、小春は既に斜面を転がっていた。
途中にある石や木の根に身体をぶつけ、痛みに声をもらし、小春は何度も跳ねながら斜面を一気に転げ落ちた。
幸いだったのは、天候の悪さから地面がぬかるんでいて柔らかく、落ち葉も積もっていたために衝撃が多少和らげられたことだろう。
そうでなければどこかの骨を折っていたかもしれない。

小春はあごと胸を強かに打ち、ようやく止まった。


「うう……」

ずるずると、うめきながら身を起こす。
着ている物は皆泥だらけ、落ち葉の破片だらけである。無論、髪も体も泥まみれである。
着物からはみ出した手足や顔にはたくさんのすり傷ができていて、じくじくと小春を苛んだ。
息をしようとして、口や鼻にまで泥が入り込んでいることに気付く。それらを吐き出し、かき出して、小春は顔を上げて辺りを見回した。

どうやら斜面を転がり落ちきって、底に着いたようだ。
周りは鬱蒼と生い茂る森で、見上げれば木の枝が頭上を覆い尽くしている。もしも登れと言われたら、誰もが途方に暮れそうだ。
ここがどこだか見当もつかないが、それでも太兵衛に見つかるかもしれない。
立ち上がろうとした途端、左の足首にずきりと痛みが走った。
おそらく、転がり落ちている時にくじいたのだろう。骨が折れていないとはいえ、これではあまり遠くへは行けない。
ならば隠れる場所を、と探した小春は、近くに茂みを見つけた。
この中に入れば、ただ突っ立っているよりは見つかりにくいだろう。
小春はくじいた足をひきずりながら茂みの中へと潜り込むと、なるべく小さく体を丸めた。息をすると、みずみずしい、濃い緑の匂いが鼻孔いっぱいに広がる。

――ぽつ、と頬に何かが落ちる。
その落ちてくるものは次第に数を増やし、やがて、ざああ……と音を立てた。
雨だ。
降り始めて間もないうちに勢いを増した雨は、小春の髪を、頬を、肩をしとどに濡らす。

小春は、急にわが身が惨めでたまらなく思えた。
決して幸せとは言い切れぬ身の上で、惨めさとは長い付き合いもしてきた人生だが、この時はそれが色濃く感じられたのだ。
生け贄役を押し付けられて、嫌な男に襲われかけて。逃げ回った挙句に足をくじいて、こんな茂みの中に身を隠すべく丸まって、その上雨に打たれて。

(あたし、きっとここで野垂れ死ぬんだ)

この先待ち受ける運命を思うと、小春の口元に暗い笑みが浮かぶ。
自分は、なんて惨めなのだろう。
口元に浮かんだ暗い笑みが、ぶるぶると震えてゆがんだ。

「……う、っうぅ……っう、く……」

小春は、声を押し殺して泣いた。
太兵衛に見つかるのを恐れてこらえているわけではない。これが小春のいつもの泣き方だ。
祖母の前で泣けば心配される。声を出して泣けば尚更だ。
だからこらえきれないほど悲しい時やつらい時は人気のないところで、一人、声を殺して泣く。それが続いた結果、いつからかそう泣くようになっていたのだ。

雨は小春を包み込み、押し殺して泣く声と頬を濡らすものをごまかした。
だが――同時に小春の体から、情け容赦なく熱を奪っていった。
太兵衛から逃げていた時は汗までかいたというのに、冷えた体は氷のようだった。まるで自分のものではないかのように、震えを止められない。

(もう、どうでもいい)

泣く気すら次第に失せて、小春は目を閉じた。
あとはもう、ただ静かに終わりたかった。
何かに苦しめられることもなく、煩わされることもなく――そうやって終わりたかった。
少なくとも、死ねばもう惨めさに泣かずに済むのだ。もはや小春にとっての救いはそれだけだった。

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