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zoom RSS 小春奇譚 九

<<   作成日時 : 2015/04/18 10:22   >>

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小春が異変に気付いたのは、格子の向こうから差し込む夕暮れの光が完全に暗い色に塗りつぶされた頃のことだった。
風の音か鳥の泣き声ぐらいしか聞こえない空間に、ざしざしと、わらじで土を踏む音が聞こえてきたのだ。

――来たのだ。太兵衛が。

小春は吐き気を覚えた。
足音はこちらにまっすぐ向かってきている。
小春は身を低くして素早く戸に近寄り、両手で押さえた。
この戸は内側に向かって押し開ける内開き式なので、こうしていれば入ってこられない。こちらの力が勝っているうちは、の話だが。

案の定、足音は神社の中へ続く階段を上がってくる。
同時にぼんやりとした明かりが近付いてくる。足音の主が、夜道を歩くために持参した物に違いない。
外にいるのは、間違いなく人間だ。

初め、戸はそっと開けられかかった。
しかし開かないと知るや、足音の主はがたんがたんと戸を揺らしだした。
時間とともに戸の揺らし具合は乱暴になり、ついには足で蹴り開けようとさえする。

目の前で、押さえる手の中で、戸が音を立て暴れる。
戸が壊れたらどうしよう。この薄い戸が、今は自分と「けだもの」とを隔てる唯一の壁なのに。
小春の目に涙が浮かんだ。

――どれぐらい、そうしていたのだろう。

「おい小春、いるんだろう?」

頭上から、焦れた様子の太兵衛の声が降ってきた。
小春はびくりと身を震わせた。

「なあ、ここを開けろよ」

知らず、小春の歯がかちかちと音を立てる。
ここにいることはとうに知られているのだろうが、それでも小春は歯を食いしばった。
音を立てないために。そして戸を押さえる手に力をこめるために。
絶対に開けられてはいけない。あいつをこちらに入れてはいけない。その一心だった。

「小春、生け贄にならなくて済む方法があるんだぜ。神様ってのはな、嫁入り前のきれいな体の娘っ子が好きなんだよ。だから、そうじゃなくなればいいんだ。男と寝れば良いんだ、簡単だろ?」

頭上から、興奮した牛のような鼻息が聞こえる。
自分の体にそれがかかっていると思うと、気色悪さに顔が引きつる。

「だからよお、開けろ。な?」

途端、ぞくぞくぞくっ、と小春は寒気を覚え、思わず戸から手を離していた。
しまった、と思ったが、それが本能の取らせた行動だとすぐに知れた。
小春が再び戸に向かって手を伸ばすより早く、一際大きく、だん! と戸が鳴り、ぎらつく分厚い刃が戸を突き破ったのだ。
手斧の刃だ。太兵衛は戸を開けるため、なりふりかまわぬ行動に出たのだ。

刃を向けられた人間は、本能として恐怖する。
鍛錬を積んだ者ならまだしも、それとは無縁の、一般的な暮らしをしてきた人間にはその恐怖をぬぐうことなどできない。
一般的な人間の、自分に向けられた刃に対する反応は大まかに分けて二つ。
とにかく危機から脱しようと無鉄砲な抵抗をするか、あるいは身動きすら取れなくなるか。生存に有利な選択がどちらかなどと考える余裕もなく、そのどちらかの反応になるのだ。

小春は、後者だった。
完全に臆して、声すら上げられなかった。

「ひひ……大人しくしてりゃあ、なぁんにもしねえよ。でもなあ」

戸から突き刺さった手斧を乱暴に引き抜き、太兵衛が小春の眼前に立つ。
暗がりの中で見上げた太兵衛の顔は、欲望に忠実なとろけた表情を浮かべていた。

「あんまり聞き分けなかったら、手足の一本ぐらい、叩っ切っちまうかもなあ?」

太兵衛が手斧の刃を向けてくる。
小春は恐怖に身がすくんでいた。
いざとなったら死に物狂いで暴れて抵抗しようなどと、甘い考えに過ぎなかったことを思い知る。
本当に恐ろしいと思ったら、人間はとっさに身動きなどできないのだ。

小春の左肩を、太兵衛が蹴り倒す。
仰向けに倒れた拍子に後頭部を強く打ち、小春は痛みで全身がしびれた。
その隙に、太兵衛が上へと伸しかかる。
道中で見た、ギラギラした目が間近で小春をとらえる。だらしなくにやけた口元から吐き出される生臭い息が、顔にかかる。

「や、やめ……」

制止しようとして、ひい、と小春は悲鳴を上げた。
太兵衛が首筋をべろりとなめたのだ。

「へへ……」

ごとり、と太兵衛が手斧を床に置く。
空いた手を小春の胸元に入れ、襟をくつろげようとする。

「うわああ!」

小春はもう訳もわからずめちゃくちゃに暴れた。
気持ち悪い。
担ぎ役の男達に嘲笑されていた太兵衛に、ほんの少しでも同情した自分が恨めしい。こいつは、こんなに汚い醜い欲情を持って自分を見ていた畜生だというのに。
太兵衛の顔を、猫のようにめちゃくちゃに引っかく。日頃の忙しさからこまめに切らない爪。しかし今は短い。今朝、身なりを整えられていた時に切られてしまったからだ。
もしも切られていなかったら、今、多少なりとも身を守るために使えただろうに。

「ぎゃっ」

その指先が、ぐにゃりとしたものを引っかけた。
太兵衛が汚い声を上げ、のけぞる。

「ぐう……うぅっ」

太兵衛がよろけ、目元を抑えてうめく。びくともしない重みが消えた。
この反応を見ればわかる。小春の指が太兵衛の目に入ったのだ。

――今だ。今しかない。逃げなくては。

生け贄の役目など知ったことではない。元々自分はその役目を回避したのだ。なのに無理強いをされて、挙句、こんな目にあって。
村のためなんて、皆のためなんて、もうそれどころではない。
小春は太兵衛の腹を蹴って体の下から抜け出すと、転がるようにして神社を飛び出した。
その拍子に、太兵衛が持参した明かりの正体、提灯が転がってたちまち火に包まれる。

夜の帳が下りた後で、明かりもなしに走るのは無謀なことである。おまけに今は着慣れぬ赤いはかまを履いていて、いつもよりずっと走りにくい。
もし途中で足をくじきでもしたら、山中で衰弱死を待つしかない。太兵衛に捕まる可能性だってある。
だが、かまってなどいられない。身の危険が迫っているのだ。
今にも後ろからぬっと太兵衛の手が出てきて、自分の肩を掴んできそうで、小春は無我夢中で石段を駆け降りた。幸い、転びも足をくじきもせず下まで降り切ることができた。

……空に浮かんだ細い細い三日月だけが、静かにことの成り行きを見守っていた。

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