男は仕事を終えてマンションの部屋に帰宅すると、明かりのスイッチを押して中へと進んだ。 男はもうすぐ四十になろうかという年だったが、妻子も恋人もいない生活をしていた。 十年以上前に経験した苦しみが、彼に新たな恋をさせないのである。 男は、その頃一人の女性と付き合っていた。 しかし、ある時から彼女の浮気を疑い初め、ついに問いただす事態となったのだ。 その頃恋人はたびたびどこかへ出かけていて連絡がつかなくなり、彼からのデートをことごとく断っていた。 それを男は「自分に飽きて、他の男に夢中になっている」と取った。 問いただされた恋人は「もう話すことなんかないわよ」と男をにらみ、男はそれにひどい罵声を浴びせた。 恋人は部屋を出て行き――その後連絡が取れなくなった。 真相が判明したのは、恋人の亡くなった後である。 彼女はその時重い病にかかっており、余命一年もないことを宣告されていたのだ。 男の負担になりたくない一心で病気のことを隠し、自ら離れたのだと知った男は、ひどい自己嫌悪に陥った。 今さらどうにもならないと知っていても、悔やまずにいられなかった。 男はそれ以来、他の女性を思う気になれなかった。 悔やみ続けるばかりではなく、できればやり直したいと、そう思っていた。 決してかなう願いではないと知りながら。 ため息をついてネクタイを緩め、ソファーにどっかと腰を降ろすと、男はまた、息を吐いた。 風呂に入るのも食事をするのも、まずこうしてからでないと何もできない始末なのだ。 気力が湧かない、といった方が正しいかもしれない。 今日も上司から「何が楽しくて生きてるんだかわからない人間だねえ」と嫌味を言われたが、男は何とも思わなかった。 彼女のことがあってから、何もかもが虚しいばかりだった。 「おう、邪魔するぜ」 唐突に知らない誰かの声がした。 男が顔を上げると、目の前に黒い体にコウモリのような二枚の羽、そして頭に二本の角を生やした生物が立っていて、男を見下ろしていた。 いつからそこにいたのか、男にはわからなかった。 「……何だ、お前」 男は驚いたり慌てたりといった反応を見せなかった。 ぼそりとつぶやいたっきりである。 「なんだ、ずいぶん反応の薄い奴だな。こりゃ、相当きてるな」 悪魔を名乗ったそいつは面白そうに目を細め、男を見た。 男は興味がないと言わんばかりにうつむき、 「俺様はまあ、人間が悪魔って呼んでる奴だよ」 「それが何の用だ」 「いやあ、生きてるんだか死んでるんだかわからん人間がいるから、つい見に来たんだよ。なあるほど、こりゃまた、へえ」 悪魔は何やら小さくうなずくと、ずい、と顔を近づけてきた。 「なあ、お前、後悔してることがあるんだろ」 男の指先がわずかに動いた。 「だったらどうした」 「やり直しさせてやろうか?」 男は顔を上げた。 ぽかんと口を開け、悪魔を見つめる。 男の中でやり直したいことなど、ただ一つだけである。 自分に迷惑をかけたくない一心で離れようとする恋人を、そうと知らずに浮気だと疑って罵ったこと。 もしあの時に戻れるのならと、一体何度思ったことだろうか。 やり直せるのか、あの時間を。 「……本当なのか」 警戒する気持ちはある。 代償に何を取られるのか、何か手痛いしっぺ返しがあるのではないか、考え出したらきりがない。 だがそれらを覆い隠して余りあるほど、目の前にぶら下げられた『やり直せる』という希望は魅力的だった。 「ああ。好きなだけやり直せるぜ」 悪魔は楽しげに笑っている。 男はソファーから立ち上がり、 「やり直したい。あの時に戻してくれ」 「そうか。まあせいぜい頑張れよ」 悪魔が目を閉じ、男に向かって鋭い爪のついた人差し指を突き出す。 同時に男の意識がだんだんと薄らいでいった。 ――もう一度、恋人に会いたい。 意識が消えるその間際、男はその思いを抱いていた。 男が気付くと、そこは以前住んでいた部屋の中だった。 男はあの頃の自分に戻っていて、目の前にいる恋人の両肩をつかんでいた。 細い肩だった。 病気のために彼女はやせ始めていたのだ。 あの時何故、この肩の細さに違和感を覚えなかったのだろう。 「離して。もう何も話すことなんかないわよ」 恋人が男をにらむ。 自分はこの後、両肩を掴んだまま彼女を揺さぶり、罵ったのだ。 なんてひどいことをしたのだろう。 あの時の記憶がよみがえり、男は胸が痛くなった。 「……肩、こんなに細かったかな」 男は思わずつぶやいた。 恋人が、驚いた顔をする。 「こんなにやせて、一体どうしたっていうんだよ。浮気だって疑ったのは謝るよ、ごめん。だってこれ、絶対違うよな。なあ、何があったんだよ」 「私……私」 「お前、病気じゃないのか? だからこんなにやせてるんじゃないのか?」 恋人が顔をうつむける。 この時の彼女が病気を患っていたということは、もう男にとっては明白な事実である。 だが、話して欲しくて男は疑問を抱いているような風を装った。 自分のことを頼って欲しい。心を開いて欲しい。 あるいは彼女に必要と思われたい一心だった。 「何よ……人の気も知らないで」 恋人の目が、みるみるうちに水をたたえ始めた。 「私、もう、あなたに迷惑しかかけられないのよ! 死んじゃうのよ、私! あと一年も持たないってお医者さんも言ってたわ! だから、だから、私、っ……なのに、なんでっ、なんで!」 (話してくれた!) 男は感激で胸がいっぱいになった。 これで未来が変わる、男はそう確信した。 「何言ってるんだよ、じゃあ、何も言わないで俺を捨ててく気だったのかよ?」 「捨てる、って……私、そんなつもりじゃ……っ」 「迷惑なんかじゃないよ。一緒にいようよ。一緒にいさせてくれよ」 男は恋人を抱きしめた。 もう一度やり直そう。残された時間は多くはないだろうが、二人の時間を大事にして過ごそう。 腕の中で泣きじゃくる彼女の背中をなでさすりながら、男は満ち足りた気持ちだった。 その日、二人は同じベッドで眠った。 隣で眠る彼女の寝顔を見つめ、男はこれからのことを思い描いた。 明日、役所へ婚姻届を取りに行こう。 そして指輪と花束を用意して、プロポーズもちゃんとしよう。 彼女の両親にも挨拶に行こう。 父親とは「お父さん」「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない」なんてお約束な展開になるかもしれないが。 彼女が病院に行く時は自分も付き添って行こう。 入院したら毎日病院へ見舞いに行こう。 そんなことを考えながら、男はいつの間にか眠りに落ちていた。 それから、どのぐらいの時間が過ぎたのだろう。 男はふと、指先に違和感を覚えて目を覚ました。 「え?」 それから、朝の光とは違う周囲の明るさに、目をしばたたかせた。 おまけに今、寝ていたはずの自分はベッドにおらず、立っている。 そして目の前には……愛しい女性。 だが、自分の手は彼女の両肩をつかんでいる。 「離して。もう話すことなんかないわよ」 同じ表情。同じ声色。 あの瞬間そのままに、恋人が男をにらむ。 (これ、は……?) 『好きなだけやり直せるぜ』――悪魔の言葉を思い出す。 悪魔は確かにあの瞬間をやり直させてはくれたようだ。 だが……これでは同じことの繰り返しではないか。 (まあ、いいや) だが男は驚きも悲しみも、絶望する気持ちも何一つ、うっすらとさえ湧いてこなかった。 何もかもどうでもいいと思いながらの虚しい生活だったのだ。 元の暮らしになど、未練などなかった。 何より今は、この愛しい女性とずっと一緒にいられる。 これが幸せでなくて何だというのか。 たとえ同じ時間の繰り返しであろうとも。 男は恋人の両肩を掴む手をずらし、彼女の背中に腕を回すと自分の方へと抱き寄せた。 バランスを崩した恋人の体が男の方へと倒れかかる。 とたんに感じる彼女の重みが愛おしくてたまらなかった。 「ちょ、ちょっと、何よ。話聞いてるのっ?」 予想だにしなかった男の行動に、恋人が戸惑いながら声を上げる。 「……愛してるよ」 「は?」 恋人は、彼の腕の中でちんぷんかんぷんな顔をするばかりだった。 |
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読ませていただきました。 |
火消茶腕 2014/02/01 18:40 |
感想ありがとうございます。 |
鈴藤由愛 2014/02/01 20:16 |
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