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zoom RSS N氏の物語10−最終話

<<   作成日時 : 2012/05/12 12:59   >>

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――私は。
急に声を荒げたNを、驚いて見つめ返すばかりだった。
一体何を言い出すのだろう。
私がフレッドという人であるはずがないのに。

「しっかりしてくれ。私はそのフレッドという人じゃない。君と私は、古くから付き合いのある友人だろう」

私は微笑み、訂正した。

「それに、君以外の人間は全員死んだはずだ。私は新聞で読んだんだぞ。君が唯一の生存者だ、と」
「フレッド、あんたは」

テーブルに置かれた彼の手が、震えていた。

「命は助かったけど、心は元に戻らなかった。あんたは無人島での出来事を他人の出来事と思い込んで、偽物の記憶を作り出した」

私は呆気に取られるばかりだった。
理解に苦しむばかりだが、どうやら彼は私をフレッド氏と信じ込んでいるようだ。
どうやら彼の中では、夢物語と現実との境界線が、非常にあいまいになっているらしい。
……まあ、無理もあるまい。
彼は無人島で二ヶ月もの間、たった一人で救助を待ち続けたのだ。
後遺症として、精神的に不安定になるのも仕方のないことだろう。

「自分はフレッドじゃない――そう言い張って、俺とは昔からの友人ということにして、ここを自分の住む町だと、そう言い出した」

Nは気付いているだろうか。
私の、彼を見る目が憐れみに満ちていることに。

「面会室は喫茶店、病室は住んでいるアパートの部屋、行き交う患者や医者は町の住人、そんな風に周りを見るようになった。新聞記事に俺が唯一の生還者だって書いてある話だって、あんたが作ったでたらめでしかないんだ!」

何としたことか。
彼にはこの喫茶店の内装や、カウンター内でコーヒー豆を挽くマスターの姿が見えていないのだ。
相当彼は心を病んでいるといえよう。
古くからの友人の痛々しい姿に、私は胸が張り裂けそうになった。
そして、彼が送ったであろう、無人島での生活を思った。
きっと心を病むほどでなければ生き延びられない、過酷な環境だったのだ、と。

「嘘だって思うなら、右足のズボンをまくってみろよ。弾丸がかすめた時の傷跡が、残ってるはずだ」

まくしたてるNの目は、血走っていた。
そうしなければ納得しないだろう表情をしていたので、私は言うとおりにしてみせた。

ズボンをまくり上げ、露わにした私のすねには……古い傷跡があった。

「見ろ。それが証拠だ。あんたはフレッドなんだ」

そんな馬鹿な。
私は頭を思い切り殴られたようなショックを受けた。
だが――すぐ、彼の言葉を思い出した。

「いい加減にしないか。君は『右足』と言ったが、決して『すね』だとは言っていないぞ。こんなものは単なる偶然だ」

そうだ。
誰にだって傷跡の一つぐらいはある。
何でもかんでも関連付けられては迷惑だ。

「証拠は一つだけじゃない。鏡だ。鏡を見てみれば嫌でも思い出すはずだ」

がんとして聞かないNの態度に、私はだんだん腹が立ってきた。
彼はどうしても、あの怪異譚に私を巻き込みたいらしい。

「鏡なら毎日、顔を洗ったりひげを剃ったりする時に見ているんだぞ。何かおかしなところがあれば、とっくに気付いているさ!」

Nと私は、しばらくにらみ合いをした。
どちらの主張が正しいか、視線で押し通すことが可能であるかのように。

先に目をそらしたのは、Nだった。
彼は急に悲しそうな顔をすると、一つため息をついたのだ。

「……どうして、俺だけ……」

か細い声でつぶやいた言葉は、後ろの方になるとほとんど聞こえなかった。
きっと彼はこう言いたかったのに違いない。

どうして、俺だけこんなに辛い目にあうんだ、と。

「良き友人として、君に休養をすすめるよ。心の傷というのは、癒えるまでに長い時間がかかるんだ。治ったつもりで、無理をしてはいけない」

Nは何も言わず、去っていった。
行きがけに、テーブルの端を殴りつけて。

喫茶店を出ると、ちょうど夕刻を告げる鐘の音が鳴り響いた。
私は借りているアパートの部屋に帰ると、ベッドに座り込んだ。
稼ぎが少ない身の上なので、部屋にはベッドと小さな棚があるだけで、テーブルも椅子もないのだ。
おまけに古いせいでじめじめしていて、はめこみ式の窓は開けられないときている。
それにしても、今日は何だかひどく疲れてしまった。
顔を洗えばすっきりするかもしれない、と私はトイレの洗面台に向かった。
安アパートゆえ、それぞれの部屋にトイレはない。
一階に、共同の広いトイレが一つあるばかりなのだ。

誰もいないことを確かめ、私はドアを開けた。
洗面台でざぶざぶ顔を洗い、手で何度も水をぬぐい取る。

――証拠は一つだけじゃない――

手の水を払っていると、急に、Nの言葉が頭をよぎった。
馬鹿馬鹿しい。一体何だというのだ。
さっきも言ったように、鏡というものは毎日見ているのだから、異変があればとっくに気付いているはずだ。
私は、何の気なしにひょいと鏡をのぞきこんだ。

――裂けた口元は血と液体でぐちゃぐちゃに――

その、ふちの欠けた真四角の鏡に映った私の顔。
唇の両端には、ぎざぎざに粗く縫われた跡があった。
私は唇の端を、そっと指でなぞった。
触れる指先が震えている。

何だこれは。こんなひどい傷跡、今まで顔についていただろうか。
……いいや、こんなものは見間違いだ。
ほら、よく見れば割れた鏡をテープでくっつけてあるだけではないか。
私の思考は、Nの奴の怪異譚に少なからず影響されてしまったようだ。
そうだ、そうだ、そうに違いない。
怖い話を聞いた子供が、ささいな物音や影に怯えるようなもの。

馬鹿馬鹿しい。
私は思わず、笑い声を上げていた。
げらげら、げらげら、げらげらげら。
トイレ前がざわつき、人の集まる気配を感じながらも、笑うのをやめられない。
頭が痛くなり、腹筋が痛み、呼吸すらままならなくなっても、まだ笑いは私の中から生まれ出ていた。

不意に、にらみ合いの末にNのつぶやいた言葉の全体が、明確に頭の中に聞こえた。

『どうして、俺だけのうのうと生きてるんだろう。あんたはこんな風になっちまったのに』





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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
アルファベットシリーズ、Mはもう使ってたよ!
今日気付いたよ!
めっちゃ恥ずかしいよ!
自分のバーカ、バーカ!
鈴藤 由愛
2012/05/23 19:12
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