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zoom RSS M氏が聞いた音

<<   作成日時 : 2011/12/24 15:36   >>

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その男の名を、仮にMとしよう。
M氏は不運な事故で聴力を失った男である。
彼が聴力の失われたことを知った時の嘆きようは、尋常ではなかった。
なぜならM氏は音楽家。聴力を失うことは精神的苦痛にとどまらず、音楽家生命に関わるのだ。

絶望したM氏はやけを起こし、憂さを晴らそうと酒を飲んでは暴れるようになった。
かつて、聴力を失いながらも素晴らしい曲をいくつも残した偉大な天才がいたが……それはM氏にとって、何の慰めにもならなかった。
むしろ、己の境遇のみじめさを思い知るだけだったのだ。
そんなM氏を支え、励ますことに疲れたのだろう。
妻子や友人達はしだいに離れていき、ある時、ついにM氏は一人ぼっちになってしまった。
見捨てられたのだ、という思いはM氏の心を深くえぐった。
酒を飲む気にもなれないほどに。

「ああ、もう一度、音が聞こえるようになったらなあ。何もかも、耳がいかれてしまったせいだ」

暗い部屋の中、M氏が泣いていると、その背後にすうっと影が立った。

「お前、音が聞こえないのか」

M氏はハッとして振り返った。
聴力は失われているはずなのに、その声だけはしっかり聞こえた。
ややしわがれた、低い声。

「そのままじゃ話せないからな。直接お前の脳みそに伝えてるんだよ」

振り返った先にいたそいつは、笑っているつもりなのか、真っ赤な口を開いた。
そいつは羽根のついた黒い体の持ち主で、とがったしっぽを時折ぴこぴこゆらしていた。
――悪魔。
十中八九、人がそう認識するだろう姿である。
そしてそれはM氏も同じだった。

「な、何の用だ」

警戒心をむき出しにして、目の前の悪魔をにらむ。

「そう邪険にするなよ。お前の望みをかなえてやろうって言ってるんだ」

悪魔はおどけた仕草で片手を差し出し、続ける。

「また昔のように、音が聞こえるようになりたいんだろう? そうしてやるよ」
「断る。どうせ何かをよこせっていうんだろう」

M氏は即座に答えた。
悪魔というのはやっかいな連中で、望みをかなえる時には代償を要求するというではないか。
それも、かなえてもらった望みを差し引くと必ずマイナスになるような。

「けけけっ。今回は何も要求しやしないよ。単なる気まぐれだからな」

まあ……と悪魔はM氏を一瞥して、

「お前が必要ないって言うんなら、俺は何もしないでこのまま消えるさ。そして一生、現れない。音のない世界で生きていくってんなら、それでいいだろうよ」

悪魔の言い分に、M氏は揺れた。
本当に音が聞こえるようになるのなら、これは願ってもないチャンスだ。

だが、本当に何の代償もないのだろうか。
後で何か、とんでもないしっぺ返しが待ち受けていたりしないのだろうか。

「……頼む。私の耳を直してくれ。音を聞かせてくれ」

結局M氏は、渇望の前にひれ伏すこととなった。
後々のことが気がかりではあったが、これ以上、音のない世界には耐えられなかった。

「そうかい。じゃあ、さっそく」

悪魔はM氏のひたいをこつん、と小突いた。
頭を強くはじかれたような衝撃に、少々気が遠くなった後――M氏の世界に、音がよみがえった。
道を往来する自動車。子供達が遠くで騒いでいる声。どこかの誰かが大音量で聞いているらしい音楽。
一度失い、渇望してきた世界が、そこにあった。

「ああ、音が、音がある! なんてすごいんだ!」

M氏は喜びのあまり、自分でも驚くような声を出していた。

「そうかい。もう少しすりゃ、もっとよく聞こえるようになるぜ」

感激し、礼を言おうと悪魔に顔を向けたが、すでに悪魔の姿は消えていた。

「あいつは一体、何だったんだ。良い悪魔っていうものがいるのか。それとも、悪魔の姿をした天使だったんだろうか」

いくら考えたところで答えの出ないことだが、M氏は思いを寄せずにいられなかった。

「そうだ。新しい曲はあいつをモチーフにしよう。全体的に暗い曲調にして……」

まるで泉の湧くように、さまざまなアイディアが浮かんでくる。
いても立ってもいられず、M氏は久方ぶりに、作曲に使っていた防音室のピアノに向かった。
こんなに心が浮き立つのは、いったい何ヶ月ぶりのことだろうか。
今まで酒びたりになって遠ざかっていたぶんを取り戻すかのように、M氏はほとんど休みなく作曲にいそしんだ。
それでも、不思議と苦痛にはならなかった。

数日間、防音室に缶詰めになった後――M氏にとって久々の、魂をこめた一曲が仕上がった。

「完成だ。ああ……私はまた、曲が作れるようになったんだ」

M氏は、以前籍を置いていた楽団に連絡を取るべく、防音室を出た。
まずは誠心誠意わびをして、それから曲を聴いてもらうつもりで。

だが、M氏は防音室を出てほとんど歩かないうちにへたりこんでしまった。
何か……何かがおかしいのだ。
ざわざわざわざわ……よくわからない変な音が絶えず聞こえるのだ。
おまけに、一歩歩くだけでも莫大な音が発生して、耳を貫いてくる。

ほどなくM氏は、自分に何が起きたのかを悟った。
M氏は悪魔に「音が聞こえるようにして欲しい」と頼んだ。
悪魔はそれを確かにかなえた。
そう。「あらゆる音が聞こえる」ようにしたのだ。

例えば歩いた時。
靴底に足が触れ、床を踏み、離れるといった一連の動作に加え、手を軽く振り、体が衣服とこすれ、髪の毛が軽く揺れるわけだが、その動きの最中の筋肉の収縮、血の流れる音までもが聞こえるようになってしまったのである。
さらには触れる空気との摩擦音までも。

M氏はたちまち動けなくなってしまった。
ただこうしているだけでも、血の流れる音、筋肉の収縮する音でうるさくてたまらないのだ。
身動きを取れば、その動きが素早く力強いものになれば、さらなる爆音に悩まされてしまう。

(気が狂いそうだ。防音室に戻ろう)

その時、ポツと降り注いだ雨のしずくが、窓を叩いた。
普通なら気付かないような些細な音でも、今のM氏にとっては投下されたミサイルのような音に聞こえてしまう。
M氏は耳をふさいだ。
血管の中を血が通う音が、滝のような音を立てている。

そうだ。天気も影響してくるではないか。
晴れていればまだましだろうが、雨が降ったり風が吹けば、その勢いが激しくなったら、一体どうなるのか。

また、投下されたミサイルの音がした。
しだいしだいに、数が増えていく。
M氏は、雨が激しくならないよう、祈った。
祈るしかなかった。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
悪魔シリーズ、好きなんですよ。
どんな罠が待ち受けているのかわからないところがいいですよね。
作曲の才能が奪われるのかと思いきや……。
前に私のリクエストで書いていただいたマネキンの話も凄かったけど、今回も予想外の展開で面白かったです。
ia.
2011/12/26 02:11
ありがとうございます。
そう仰られると、今後もますます頭ひねって展開を考えねば! と燃えます。

実は違うオチで一旦投稿しようとして、「あ、これじゃつまらん」と書き直したんですよ。
書き直して正解でしたね。うん。

またお暇な時にでもいらして下さいませ〜。
鈴藤 由愛
2011/12/26 20:30
M氏が聞いた音 プラスマイナス1/BIGLOBEウェブリブログ
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