その男の名を、仮にIとしよう。 I氏はごく普通のサラリーマンで、その日、深夜までの辛い残業をこなして帰宅するところだった。 途中で寄ったコンビにで買った缶ビールとつまみの入ったビニール袋をぶら下げつつ、早く風呂に入って酒飲んで寝たい、という一心で歩いていると、 「もしもし、そこの方」 と、声をかけられた。 立ち止まると、いつからそこにいたのか、一人の物売りが道端に座っていた。 その前に広げられた布の上に、売り物が並んでいる。 売り物は包丁やまな板、お玉、なべといった調理器具ばかりだった。 「お一つ、いかがですか」 「いらないよ」 I氏は手を振り、通り過ぎようとした。 深夜までの残業となると、「帰りが遅い」とおかんむりな妻をなだめるために、土産を買って帰る者もいるだろう。 だがその土産には妻の喜びそうな物を選ぶべきであり、おまけにI氏は独身で実家暮らしの身の上で、帰りの遅さをわびる相手もいないかった。 「まあまあ、そんなこと言わずに。説明だけでも聞いてくださいよ」 物売りは人なつこそうな笑顔を浮かべ、I氏に近寄った。 そして、やや深いなべを差し出した。 「なべなんかいらないよ。家にはまだ使ってないのもあるんだから」 I氏の話は事実である。 十年ほど前になるだろうか、結婚式の引き出物でもらってきてそのまま、というなべが二つか三つあるのだ。 「いえいえ、これはただのなべじゃないんです。実はこのなべ、秘密があるんですよ」 物売りは急に真顔になると、声をひそめた。 「実はこのなべ、何でも一つ、一番最初にゆでた物を、毎日毎日出してくれる魔法のなべなんですよ」 「一番最初にゆでた物を出すって、そりゃ一体どういうことだ?」 「ですから、申し上げた通りですよ。玉子をゆでれば玉子を、パスタをゆでればパスタを、毎日毎日食べられるってわけです。あ、出てくる量は、最初にゆでた時のものですよ」 I氏はその言葉に、あごをさすった。 好きな食べ物をそのなべでゆでれば、毎日食べられるというのは、食べるのが何よりの楽しみ、という人にとっては実に魅力的な話だろう。 しかし、I氏はそんなに食べ物に執着心がない男である。 食べ物よりは、むしろ――。 「そのなべで金をゆでたら、どうなる」 I氏が魅力を感じるのは、食べ物より金だった。 実家暮らしとはいえ、毎月の給料を入れている身分としては、食べ物よりも自由に使える金の増額が何よりの望みである。 「はい、毎日毎日、その時ゆでたのと同じだけの金が、なべから出てきますよ」 物売りは言いよどむこともなく、あっさりと答えた。 「でも、本当かな。証拠もありゃしないし、嘘なんじゃないのか」 「嘘なものですか。もし不満なら、返品していただいて結構ですよ。お代もちゃんとお返しします」 「あんた、いつまでここで売り方をしてるんだ」 「そうですねえ、三日後には別のところで商売させていただこうかと思っています」 それなら、損はしなさそうだ。 「……いくらなんだい」 「はい、お客様が今お持ちのお金の半分をいただきます」 「ずいぶんあいまいな代金の決め方だなあ」 I氏が財布をのぞくと、二千円が入っていた。 こうしてI氏は千円で、その魔法のなべとやらを買うことになった。 明日のうちに銀行からお金を下ろしてきて、鍋でゆでて大金持ちになってやる。 家へ向かうI氏の足取りは、それまでとは打って変わって軽やかになっていた。 その二日後。 物売りのところへ、I氏が悲壮な面持ちでとぼとぼやって来た。 それに気付いた物売りが立ち上がると、ずい、となべを突き出し、「返品」とだけつぶやいた。 「返品でございますね?」 物売りが確認すると、彼はこくりとうなずいた。 「ゆでた物が、出てこなかったんでございますか」 「いや」 I氏はよりいっそう、悲壮な顔をした。 「寝て起きたら、煮沸消毒だって、じいさんが鍋でふんどしをゆでてやがった……」 |
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内 容 | ニックネーム/日時 |
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あはは。これ、とってもおもしろいですね。 |
七花 2010/10/24 12:02 |
ども、いらっしゃいませ。 |
鈴藤 由愛 2010/10/24 15:52 |
お久しぶりです。 |
ia. 2010/11/06 01:48 |
ども、お久しぶりです。 |
鈴藤 由愛 2010/11/06 10:30 |
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