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zoom RSS H氏の味方

<<   作成日時 : 2008/06/05 22:55   >>

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その男の名を、仮にHとしよう。

H氏はバス停の前に立っていた。

全く見覚えのない場所だ。

古くなってヒビの入ったアスファルト。
道の両側に広がる田んぼ。
はるか遠くの方にぽつぽつと民家らしい建物が見える。

どこからどう見ても、典型的な田舎の風景だ。

――俺は、どうしてこんな所にいるのだろう。

H氏はうなじをボリボリかいた。

どんなに考えても、頭の中にもやがかかったようで、ハッキリしない。
まるで、眠っていて目覚めたらここにいたみたいだ。

やがて、考えていてもらちが明かないと悟り、H氏は取りあえず近くのベンチに腰掛けた。
バス停の時刻表に目をやると、あと三十分ほどで、次のバスが来るようだ。

H氏は自分の靴を見つめながら、あきらめ悪く考えた。

俺は、バスに乗ってどこかに行くつもりだったのだろうか。
それとも、誰かを迎えに来ていたのだろうか。
もしや、どこかからここへ来たところか。

――と、そこへ誰かがやってくる気配がある。

ベンチの真ん中に座っていたH氏は、スペースを開けるべく端の方に移動した。
現れた人物にちらりと目をやって、H氏はあ然とした。

現れたのは、灰色の熊の着ぐるみを着た奴だった。

少なくとも、H氏はそう認識した。
そうでなければとても納得出来なかったからだ。

赤い野球帽にオーバーオールという出で立ちの、幼児番組に出てきそうな熊が実在してたまるものか。

H氏の視線を受けた熊の着ぐるみは「こんにちは」と挨拶をした。
穏やかな少年の声だった。

「ど、どうも……」

H氏は引きつり笑いを浮かべつつ、そう返すのがやっとだった。
ひょっとしたら罰ゲームでこんな恰好をさせられているのかもしれない。
H氏は寝たふりをしてやり過ごそうと、うつむいた。

「お久しぶりですね」

着ぐるみは腰掛けるなり話しかけてきた。

H氏はむっとした。

馬鹿を言うな。
俺の知り合いに、熊の着ぐるみを着て歩くような奴はいない。
にらみつけてやろうかとも思ったが、ややこしい事態に陥っても面倒なので、H氏はだんまりを決め込んだ。

「覚えてないのも無理はないです。最後に会ったのはあなたが小学一年生の時でしたから」

H氏の考えていることを知ってか知らずか、着ぐるみはしゃべり続ける。

小学一年生……か。

H氏は急に、あの頃が懐かしくてたまらなくなった。

今よりも一日が長くて、責任だとか義務だとかわずらわしいものもなく、生きる、ということを純粋に楽しんでいた。
「大人になったら」と、将来を夢見ていた。


――それなのに、今は。


H氏は、人生に絶望していた。

頼み込まれて保証人になってやった男の失踪。
同時に押し付けられた巨額の借金。

――友人だと信じていたのに。

妻は借金のことを知ると、あっさりとH氏を見捨て、子供を連れて家を出た。

――何があっても支えてくれる女性だと信じていたのに。


家も、車も、職も、周りの信頼も……転がり落ちるように、何もかもを失った。

借金取りに追いかけ回される日々が、次第に彼の神経を追い詰めていった。


――そして。


ああ、とH氏は思い出した。

俺は、死のうとしたのだ。

死に場所選んだのは人気のない山。
旅行カバンにロープを入れてバスに乗り、曲がりくねった山道を進んだ。
最後に見る景色だからと、車窓から見える景色をじっと見つめていた。
唐突に、体がふわんと浮かんだ直後、その風景がめちゃくちゃに回転し、あとは轟音と悲鳴と激痛とが世界を支配した。
バスがカーブを曲がりきれずに落ちたのだと理解した頃には、H氏の意識は薄くなっていた。

「そうか」

疲れきったため息が、H氏の口から吐き出された。

「俺は、死んだのか」

いずれ死ぬつもりでバスに乗っていたのだ、あまり悲しくはない。
H氏は唇をゆがめ、渇いた声で「はは」とかすかに笑った。

「いいえ、まだ死んでません」

着ぐるみは静かに、だがきっぱりと告げた。

その時、道の向こうから一台の古びたバスがやってきた。
バスはH氏の前で止まり、ドアが開く。

死者の世界までこれに乗っていく、という寸法か。

H氏はゆらりと立ち上がり、バスのステップに足をかけた。

その時、彼のシャツをつかむ者がいた。
……着ぐるみだった。

「僕は」

着ぐるみのもさもさした手から、久しく忘れていた温もりが伝わってくる。

「僕は、何があってもあなたの味方です」

こいつは何を言い出すんだ。
着ぐるみに、そんなことを言われる筋合いはない。

H氏は戸惑った。

「生きるってことは、決して楽なことじゃありません。どう進もうと、辛いことや苦しいことがあります」

それでも、と着ぐるみは続ける。

「僕は、最後まであなたの味方です」

言い終えると、着ぐるみはまっすぐH氏を見つめた。

「あの時の、返事です」

同時に、シャツをつかむ手が離れる。
着ぐるみは彼に背を向けて、歩き去って行った。

H氏は、足を接着剤で固定されたように動けなかった。

「乗るのかい、乗らないのかい」

仏頂面な運転手が声をかけてきた瞬間――辺りをまばゆい光が埋めつくした。


「生存者一名発見!」
「おい、しっかりしろ! 眠るんじゃないぞ!」
「名前は? どこから来た?」

唐突に、慌ただしい物音がぐっと迫って来た。


こうして、バスの転落事故の数少ない生存者となったH氏は、数ヶ月入院することになった。
入院費用はバス会社の負担である。

借金は病院から外出許可が出しだい、自己破産を申請するつもりでいる。

――生きるために、とことんあがいてみよう。
まずは、やれることを全部やってみよう。

事故以来、H氏はそういうふうに考えられるようになっていた。

次に頭に浮かぶのは、決まって、あの着ぐるみのこと。

あの時はわからなかったが、あの着ぐるみは昔持っていたぬいぐるみにそっくりだった。
母親が懸賞で当てたもので、H氏はそれをとても気に入り、一緒に寝たりしていた。
しかし、小学校に入学しようかという頃、母親が捨ててしまったのだ。
「男の子がぬいぐるみに夢中だなんて」と、息子の将来を心配してのことだったらしい。

H氏は、あの着ぐるみはそのぬいぐるみで間違いないと思っている。
大きさは丸っきり違うし、だいいちぬいぐるみが動いてしゃべるはずもないことは知っているが、本人なりに根拠があるのだ。

いじめられたり、友達とささいなことでケンカをしたり、叱られた時――H氏は決まってぬいぐるみを抱きしめて、涙でぐじゃぐじゃな顔をすり寄せ、言っていたからだ。


「クマくんは、ぼくのみかただよね? そうだよね?」と。

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
クマ―――!
今、熊、きてますよね、よね。
これを読んでホロリとして、それから勇気が湧いてきました。
H氏のストーリーはとても現実的なのに、どこかおとぎ話めいています。口が利けなかった縫いぐるみが、何十年も経って返事をしにくる――ここがわたしのツボでしたね。
>「生存者一名発見!」
ここ、腕毛が立ちました。
つる
2008/06/06 20:40
ああ、そういう話だったのか、ドキッとしました。「生存者一名発見!」の表現は効果的ですね。
リンクを貼っていただいていたので、他のアルファベットシリーズも読ませていただきました。生と死を扱った作品が多いようですね。タイトルもシンプルで、読む前からとても興味をそそられました。
ia.
2008/06/07 01:13
感想ありがとうこざいます。

つる様>今回は珍しく感動系です。
最後までぬいぐるみにするか猫にするか、迷いました。
でも普通、飼ってた猫のことは忘れないよなと思って、ぬいぐるみに。
クマッ。

ia.様>目次作りの第一歩としてアルファベットの話を分けました。
言われてみると確かに、生死を扱った話が多いですね。
「生存者一名発見!」は閃いたままに書いたので、実際の現場では言わないかな……とドキドキビクビクしてたり。

よろしければ、またおいで下さいませ。
鈴藤由愛
2008/06/07 07:41
ご無沙汰してます。
これってなんか感動!
昔大事にしていたぬいぐるみはいつまで経っても自分の見方だったんですね。
きっと大事にしていたんでしょう。

とっても暖かな気持ちになれました。

2008/06/07 22:00
感想ありがとうございます。

小さい時に夢中だったものって、大人になってからも特別ですよね。

私は小学二年の時に買ってもらった白クマのぬいぐるみ、未だに持ってます。
もう何年も出してないから、大変なことになってるかも……。

よろしければ、またおいで下さいませ。
鈴藤由愛
2008/06/08 06:59
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