オレは、じりっ、と後ずさった。 頭の中で、ガンガン警報が鳴ってる。 逃げろ、逃げろ、と誰かが耳元でうるさく叫んでいる気がした。 「言え。お前はどこの勢力のスパイだ」 こんな状況でも猛烈にかゆくてたまらない片目をこすっていると、スーツ男はがいきなりそんなことを言い出した。 「ス、スパイ?」 一体何の濡れ衣だ、おい。 オレはただの高校生だ。 「忘れたか。謁見の様子を盗み見ていた時に眼球をつつかれた事を」 ……って、ああー! オレは思い出していた。 道路に開いていた穴を興味本位でのぞいて、片目をつつかれてものもらいになった、あの事件を。 「私はスパイを特定するために、片目をつついた時に特殊な術をかけておいたのだ。地下帝国に関した人間や事物に接触すると、うずいて猛烈なかゆみを起こす術だ。お前は今、片目がかゆくてたまらないだろう? それでもなお弁解が出来るのなら、聞いてみたいものだ」 片目をこするオレの手が止まる。 そう言えば、このスーツ男、オレの片目をつついた奴と同じ声じゃねえか。 鎧を着てたから顔がわからなかったけど、なんで気付かなかったんだろ、オレ。 「誤解だって! オレはただ、道路に穴が開いてたから、気になってのぞいてみただけなんだよ。スパイなんかじゃねえって!」 オレは、ありのままをしゃべった。 そうだ。 興味本位でのぞいただけだ。 何かあったら面白いとは思ってたけど、あんな物騒な場面を目撃したかったわけじゃない。 「そうか。あくまでもシラを切るつもりだな」 スーツ男が、低い声でつぶやいた。 同時に、右手をそっと動かすのがわかった。 動物的な勘が、オレに大声で警告した。 今すぐ逃げろ! と。 「うわあああっ!」 オレは、走り出した。 殺される殺される絶対殺される! 一番近い教室の中に飛び込んで、近くの机を片っ端から引っくり返す。 何か……何か、身を守れそうな物は!? なぎ倒すようにして近くの机を引っくり返していたオレは、ふと黒板の下に目が行った。 数学の授業で使っていた、黒板に図形を描く時に使う巨大な三角定規があった。 ――これだ! オレは、巨大な三角定規を引っつかむと、教室のドアを閉めて壁に身をくっつけた。 スーツ男が教室に入ってきたら、こいつで思いっきりぶん殴る。 思いっきりぶん殴って、スーツ男が激痛にのたうちまわってる間にもっと遠くに逃げる。 もしこっちのドアじゃなく向こう側のドアから入ってきたなら、その時は攻撃しないで逃げる。 それしかない! ああ、でも。 もし打ち所が悪くて、スーツ男が死んじゃったりしたら、オレ、殺人犯だよな? 裁判所行きだよな? 刑務所行きだよな? あれ、少年院か? とにかく前科一犯のフダ付きだよな? でもでもでも、オレ、今はっきり命の危機を感じてるもん。 ――やらなきゃ、殺られる、ぐらいの。 息をひそめていると、やけにゆっくりした靴音が近付いてくるのがわかった。 くそっ。こいつサドだ、絶対サドだ! オレが怯えて隠れてるのを知ってて、さらに追い詰めて楽しんでるに違いない! 「隠れても無駄だ。そこにいるのはわかっているぞ……」 オレのいる方の教室のドアが、細い隙間を広げ始めた。 ――今だ! オレは、巨大な三角定規をスーツ男の顔面めがけて振り下ろした。 無論、力いっぱい。 スーツ男、鼻血が出てもメガネが壊れても歯が欠けても恨むなよ!! なのに。 木でできた頑丈な三角定規は、バキッと折れて飛んでいった。 「始めに言ったはずだが。無駄だ、と」 スーツ男が、涼しい顔でオレを見ていた。 間違いなく当たったはずなのに、メガネの位置すら動いていない。 こいつ……どんだけ頑丈なんだよ!? オレの腹に、拳がめりこむ。 はずみで、オレは後ろにぶっ飛ばされた。 がしゃごしゃがたん! という派手な音が炸裂して、体が壁に叩きつけられた。 ぐええ、マジで痛ぇ……。 息をしようとしたら、むせて止まらなくなった。 口の中に、嫌な感じの酸っぱい味が広がってくる。 頭がガンガンして這いつくばっていると、スーツ男の足が視界に入った。 「正直に言う気になったか。スパイ」 ぐいっと髪を引っ張られて、頭を持ち上げられた。 視界いっぱいに、スーツ男の顔が映る。 感情のない冷たい目に、オレが映っていた。 「スパイじゃ、ねえって……」 うげっ。 何か言うだけで、吐きそうだ。 「なるほど。ではもう少し痛い思いをするがいい」 やべえ……。 スーツ男の声に、凄みが増した。 「ところで……術をかけられた眼球がどんな状態になっているか、見てみたくはないか?」 ぐい、とスーツ男の親指が、オレの片目のふちを押さえた。 悪寒が体を突き抜ける。 オレ……ただの高校生なのに、なんでこんな目にあわなきゃいけないんだろう。 今までごく普通に生きてきたのに、なんで今、生きるか死ぬかの瀬戸際にいるんだろう。 「ぐっ」 突然、くぐもった声がして、スーツ男の目が見開かれた。 オレの頭から、手が離れる。 バランスを崩したオレは、ぶざまに床に顔面をぶつけた。 い、今のは……ゴッっていったぞ……頭蓋骨にちょっと響いた……。 「あるじ、ご無事ですかっ」 ああ、タマちゃんの声がする……。 タマちゃん、オレ無事じゃないよ……苦しくて痛くてなんか目の前グラグラするよ……。 「あるじに危害を加えるというのなら、容赦はせん!」 顔を上げると、見慣れた白い毛むくじゃらが、オレとスーツ男の間に立ちはだかるのが見えた。 ああ、タマちゃん……オレを助けに来てくれたのか……。 何をしたのかはよくわからないが、スーツ男が腕を押さえているところを見ると、どうも腕を攻撃したらしい。 「ふっ、神犬の末裔を従えていたとはな。お前はやはり、一般人ではないな」 いや、ただの単なる一般人だってば……。 「戦って負けるとは思わんが、ここは一旦退くとしよう」 スーツ男は、やけにあっさりと引き下がった。 そう、危険なことには全く縁のない……もとい、なかったオレですら不自然に思うほど、あっさりと。 「忘れるな。計画は進行しているのだよ。今、こうしている間にも、な」 そして、妙に気になる言葉を残して教室を出て行った。 口元にうっすら笑みが浮かんでいたように見えたのは……気のせいか? ……なんか、気になるな。 何か、別のこと企んでねえか? 「あるじ、立てるか?」 その声で我に返ると、タマちゃんがオレを見上げていた。 「無理……あちこちすっげー痛い」 痛い、と言った瞬間、なんだか痛みが増したような気がした。 「……申し訳ない。もっと早く気付いていれば、奴に危害を加えられる前に駆けつけることもできたのだが……」 うなだれる様子が気の毒で、オレは思わずタマちゃんの頭をなでていた。 「……気にすんな」 腹やら頭やらはズキズキするが、足はケガしてないから、休めば何とか歩いて帰れるかもしれない。 と、視界が急に変わった気がした。 明確に何かが変わったというわけじゃなく、霧が晴れたというか、明るくなったというか、そんな感じだ。 タマちゃんが顔を上げて、鼻をひくひくさせる。 「どうやら結界が解かれたようだ。これで自宅へと戻れよう」 へー。 結界が解けるってこんな感じなのか……。 と、周りを見てみると、オレがなぎ倒した机や散乱した物が元通りになっていた。 「何もなかったみたいになってるねぇ……」 「そのための結界ということらしい。奴らめ、痕跡を残しておきたくないようだ」 ……結界が解けても、オレのケガは「なかったこと」にはならないようだが。 「あー。痛いよー。タマちゃーん、ちょっと枕になってくれぃ」 言いつつタマちゃんの背中の毛に顔をうずめると、 「甘えるでない、あるじっ」 しっぽで顔をはたかれた。 ちぇ。 この時オレは知らなかった。 安らげる場のはずの家で、絶望させられる羽目になるなんて。 *1〜5話はこちらからどうぞ。 一話 二話 三話 四話 4.5話 五話 |
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危険だわ、危険すぎる。目が痒いどこンの騒ぎじゃないのね。こうなったら「オレ」は本気モードね。変身するのかしら。それともタマちゃんが変身…… |
つる 2008/03/22 00:22 |
感想ありがとうございます。 |
鈴藤 由愛 2008/03/22 22:25 |
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